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「じぶんをきらい」と思ったら。

それが何年何月何日何時何分かは、覚えていないんだけど。
その頃、自分の好かれなさや生きにくさを自覚していたのは、たしかで。

手の届かない背中と服の隙間に1本の髪が挟まっているような、むずがゆい居心地の悪さは、ほかの人より肉付きのよい大きなからだのことだったり、容姿や可愛げのなさを理由に、女であることをばかにしてくるかもしれない人々に気が許せないことだったり、周りにいる明るく可愛くふるまうひとを、どこかばかにしてる自分のことだったりした。

今でなら「聞いとく必要ないぜ、B*tch。アンタは生きてて、そんで美しい」って言えるけど、それがわたし自身のエールであっても、当時のわたしが受け取らない頑なさもまた、やっぱりわかってしまうのだ。
わたしの話をまじめに正面から受け取ってくれない世の中に、わたしは絶望していた。

そんな頭のなかの猥雑さを、かき消すようにエンタメに没頭していった。
好きなことを好きなように、少ない語彙で興奮のまま語る。
そうして「消費者」として役割を全うしているときだけは、自分らしく息ができていると思っていたから、日々は常に「擬態」して過ごすものだと思っていた。

「擬態」の日々は、めくるめく喜びに満ちていたものの、転機となったのは相次いでの親の病死。
父に続き、母が亡くなったことで、「ああ、やっとわたしは、わたしのためだけに生きていいんだ」と、道がひらけた気分になった。
もうなんにもわたしを縛るものはないから、わたしはすぐさま旅立った。
他人ひとの目の最たるものだった母が居ない。誰かに場所を共有したり許可を得る必要がない足取りは、ビーチサンダルが指から脱げるように、ふわり軽く思えた。

踏むと沈んで、そして熱くてたまらない砂浜を去る。
まだわたしが何も覚えていないような幼い頃のこととして「赤い服を着せていたら、道ゆく人に男の子と間違われた」ことを、娘のとっておきのおもしろエピソードとして話すような母であったし、中学以降は買い食いを忌々しく思い、太っていることについて、つっかかってくるような母であった。
褒められたことも、もしかしたらあったかもしれないけど、大容量のHDDをザッピングしても身体をはじめ、わたしという存在へのdisばかりが挙がる。

「だから将来私に子どもが生まれたら その子の容姿について無神経な事を言って その子を傷付けたりは絶対しないって誓ったわ」という堅い決意は、よしながふみ「愛すべき娘たち」の引用であるが、まるごと同じ気持ちが述べられていて随分と心が軽くなった。
ああ、わたしと同じひとが、ここに居てくれて、わたしの気持ちを考えてくれていた。

「胸元はしまえ」「脚を広げるな」「夕方までには帰宅しろ」「女の子なんだから」と、「早く男と付き合え」「就職して安心させろ」「結婚して安心させろ」を並列に扱うことに矛盾を感じないのは、母もまた、まじめな親であったのだろうなと今は、思う。




たくさんの有象がわたしの隣人だった

わたしの周りには、わたしのことを考えてくれているひとは、おそらく居ただろう。
少ないなりに友人もおり、こんな気難しいわたしと付き合いを続けてくれている。わたしも及ばずながら、そんなみんなを大事にしてきたと思う。
しかし、「自分の思想や本質を理解されたい」という欲求は常にあって、ときどき発露しては思ったようなレスポンスがなく、落ち込むことのくり返しであった。
だからこそ、エンタメや創作に心を寄せてきた。
わたしは会えもしない人々のつくる作品のなかにだけ、いつもわたしを見つめていた。

何者でも強い結びつきをひとつ持てば、生きていかれることを知った。
次第にエンタメの高揚感がもたらす一時いっときの没入よりも、のびやかに遠くに連れていってくれるのは書籍であり、著者ではないかと考えるようになった。対等に自分を見つめてくれていることに、心からほっとしていたから。

周りに打ち明けても「そんなの普通」「考えすぎ」「みんなしんどいんだから」と、だから無いことも同然だと返ってきて傷ついてきたことが、ちゃんと「そういうことあるよね、わりと普通だよ」という共感には、しゃがんでいた場所から顔を上げるだけの元気をもらえたと思う。
前述のふたつの「普通」は、同じ単語だけどまったく別種のことばなのだ。



劣等感の源泉

顔を上げ、立ち上がったわたしは、以前からのわたしを別人のように自由にした。

大体のところでは、すばらしいとされるのは、細くて容姿の整った女性だ。
それにプラスして若ければ若いほど、良いとされている。
頭髪と眉毛、まつ毛以外は存在を許されず、見えない部分の体毛も他者目線を理由にコントロールされる。
(介護しやすく? 医療従事者で日常的にその体毛が邪魔、と言うひと居るんだろうか)
そして、十分にかわいく、更に写真アプリで「盛る」必要があり、その天井は見えない。

息苦しかった。
「それ」以外は、女性ではないし、わたしではないと言われているように感じていた。
広告の不快さよりも直接的なのは、ナイズドされた人々の言葉だった。
彼女らや彼らは、いつもわたしを見ながら、テレビや雑誌に居るわたしではない者の話をしていた。

Instagramで「この身体で生きていて、そして幸も不幸も感じている」という、優しい人々の存在そのものや人生観からエンパワメントされたことも、数えきれない。それは星の瞬きのように、エネルギーに溢れていた。
プラスサイズを通じて、ボディポジティブを知り、そしてセルフラブに繋がれたことは、自分にとって内省の時間をもたらした。

「どんな身体でも美しい」「そのままの身体で充分」という考えを知って、わたしは初めて、他人と違う自分の身体をジャッジしなくていいんだ、とそこに誇りがあることを知れた。
そうして世界はずっと広く、今いるところで疑問と怒りを持つことも、行き先を選んで生きていくことも、やろうと思えばできるんだ、って思えた。光明だった。

わたしは、数十年かけた今、ようやくわたしの顔を、わたしの身体を、真っ正面から見つめることができた。
ファッションは、細くてかわいい人々にのみ許された特権ではないことを知った。
また、容姿の整った若くきれいなひと、と決めつけてきた人々も、同じ呪いの下に居たのだと。

だから、わたしを、わたしでは失くしてきたものとは一体なんだったのかを知りたくなった。



かけられた呪いを強化するのも、ほどくのも。

体型が細いことだけが正しいのか?
毛のある腕や足、しみやくすみのある肌は悪なのか?
きれい、とは一体何を持って差すのか?
健康とは? 不健康とは?
性別の示す「らしさ」って?
他人事ではなく、情報が体温を持って、からだに溶け込んでいった。
紛れもなく改革で、アップデートだった。

わたしは40年分の半生において今は、自分自身のトリセツが明確になって、猥雑さからは離れることができている。
生きにくさからは相変わらず解放されていないものの、それは社会の枠組みの問題であって、自分の力の及ぶ範囲では、すぐには変えられないとわかった。でも、付き合い方や距離は変われる。枠組みも、いずれ変わる。

自分の知らないことがある。
いろいろな生き方をしているひと達が居る。
そのひと達は、いつでもわたしの人生の師匠となり得るのだ。



紹介したい書籍一覧

母娘には憎しみと呪いがある。連綿と続く3世代の女性と、その周辺の在りようを描いた漫画。
作中、主人公のひとり、雪子の友人がアロマンティックと思しき描写がされていることに、再読して気が付きました。
作品が出た頃は、まだラベルのなかった存在を、現代は見逃していないんだなと思いました。

フォトグラファーのアリ・セス・コーエンは、自身の祖母からインスピレーションを得て、NYの路上で60代以上の被写体を撮り続け、ブログで発信。それが社会現象にもなり、ドキュメンタリー映画も作られました
年齢を重ねることを恐れず、その来歴に美学や哲学が宿ることを教えてくれる写真集。
わたしがファッションに開眼するきっかけとなった、重要な1冊です。

ひどく悲しいときこそ、誰かに居てほしい。
そんな気持ちに寄り添ってくれるのが遠藤平蔵と、仔猫の重郎。
自分の悲しみを噛み締め、誰かの悲しみを想う漫画。
今を懸命に生きているひとが居る、という事実を見逃さないことが、多くの命を活かすことになると信じられる。
多くのエピソードの中に自分を見つけ、親しい人を感じる、そういう体温がある。
コミックDAYSブログウィズニュース、スピンオフ作品がコクリコで連載中。

「あなたと私は違う。そして、親友なの」
アメリカの大学に通うサトコとナダのルームシェア生活。日本とサウジアラビアの文化的背景の違いを、比較するでなく淡々と紹介し合い、理解を深めていくふたりがいじらしくて、そして素敵だなと思えます。
監修の西森マリーさんは、この本について「テロリストなどの印象で、怖いと思われがちなイスラム教圏の文化を広めるには、漫画はまさにうってつけだった」と仰るのは確かで、ムスリム / ムスリマのリアルをひとつ身近に感じます。全4巻。星海社のウェブサイトで試し読みできます

母親を亡くした当時に読んで、その刹那的な慕情に打ちのめされたエッセイ。母親に愛されたことを、己の身体で実感する悦びが喪失に変わっていく感情をまるごと喰らいます。
会うひと会うひとに、親は居るのか、健在なのかを確認せずにはいられないのは、迷走で発作で、なんかわかる気がします。

Instagramや本noteでも、しつこいくらいに紹介し続けていますが、わたしが周りと距離感が計りづらかったり、生きづらさの自覚に役立った1冊。
漢弾地さん自身の「よくなかった体験」をフィードバックして、改善に向けてしてきたことを振り返ったり、パートナーとの対話から良かったことを挙げていくスタイルが心地よかったので、今も愛読しています。

「羣青」の中村 珍さんが同性パートナーとの子育てを描いた漫画。
これは、母性も父性もない育児のロールモデルでなく、産まれたなら生かすしかないのが子ども、っていう当たり前を描いていると思う。
そもそも中村さんとパートナーのサツキさんは、(生まれ育ってきた環境由来によって)想像力のある人なのが頼もしく、子どもの視点や子どもの居る世界をとても大事にしていることが伝わってくる。
「ママ母手帳」は、「お母さん二人いてもいいかな!?」で省かれた、中村さん自身の恋愛事情や2人のなれそめ、3人いる子どもをもうけたそれぞれのエピソードを載せているので、併せて読むといいです。

アメリカのコメディエンヌ、ティファニー・ハディッシュの自伝。
(本人朗読のオーディオブックもあるよ!)
今、動画配信者やライバー全盛の時代にこそ、ティファニーが歩んできた道は役に立つと思う。
何より声が、そのまま誰かのエネルギーになる稀有な人。苦境でもユーモアを忘れなかった彼女の生き様には、どんと背中を押されます。
ぜひ動画で彼女のことを見てほしい。The Daily Showでのトレヴァー・ノアとの対談が好き。

絶賛、連載中。 次の更新がいつも待ち遠しい。
フェミニズムのパンチラインが止まらねえ!

じぶんZINE「pooks プークス」では、わたしにまつわるボディポジティブとフェミニズム、そしてホテルステイの記録を書いています。

ボディポジティブとフェミニズム、自撮りのInstagram
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