望郷の歌



春日大社に詣でることに違和感はないが、社殿に首を垂れる時、ちらと権力の盛衰に想いを馳せることがある。

創建当時、藤原氏の隆盛はすでに絶大な権力を持ち、大河のようなその流れは、こうして現在まで続き、神として信仰の対象にまで昇華している。

権力の盛衰とは、山上憶良や大伴旅人、息子の家持や道真の歌などに顕著な、寧楽(奈良)から遠方への任官(当時は配流のような感覚と考えてよい)である。

そして防人たち。

主に東国から集められ、難波の津(大阪湾)より瀬戸内海航路で大宰府へ向かった。

推定で3千人と言われている防人の徴兵制は、現代に置き換えると、およそ成人前後の年齢から還暦くらいまでの男子と考えてよい。

その彼らの任期は3年ほどで、対馬、壱岐、筑紫など、主に北九州中心に駐屯、防禦はもちろんのこと、石垣などの築城作業をさせられた。

僻遠の地から簡単に移動できるわけもなく、想像を超える厳しい時代だった。

大君の命(みこと)かしこみ磯に触(ふ)り海原わたる父母を置きて 防人

防人に立たむ騒ぎに家の妹が業(な)るべきことを言わず来ぬかも 同

旅行きに行くとも知らずて母父(あもしし)に言(こと)申さずて今ぞ悔しけ 同

水鳥の発(た)ちの急ぎに父母に物言ず来にて今ぞ悔しき 同

韓衣(からころも)裾に取りつき泣く子らを置きてそ来ぬや母(おも)なしにして 同


橘の美袁利(みをり)の里に父を置きて道の長道(ながち)は行きかてぬかも 同


父母が頭(かしら)かき撫で幸(さ)くあれていひし言葉ぜ忘れかねつる 同

万葉集(古歌集など)には防人たちが綴った数多くの望郷の歌が収められ、他にも、現在まで人口に膾炙されている歌も多く、哀れを誘う。

これすべて、大和朝廷が百済との国交のみにこだわった結果であり、白村江の大敗北のツケを庶民が払わされたわけだ。

中大兄以前(正確に言えば乙巳の変以前)は、等距離、全方位外交で大陸や韓半島と交流があったわけで、隋や高句麗などとの良好な関係は、厩戸(聖徳太子)の施策を持ち出すまでもない。

※ 歌碑には「安倍」とあるが、「阿倍」でも正解。

唐土で月を見た男の望郷の孤独は、いかばかりかと思う。

遣唐留学生として大陸に渡り、日本への帰国を果たせずに唐で客死した阿倍仲麻呂の生涯は73年だった。

唐に渡ったのが西暦717年、仲麻呂19歳である。
この時、吉備真備や玄昉も一緒に入唐している。

そして帰国を図るも、難船で現在のベトナムにまで流されてしまったのが、日本を離れて35年以上経った時だった。

大宰府での任官はそれなりの期間があり、やがて都へ帰ることも叶うが、仲麻呂の場合は物理的に帰国できない状況にあり、「住めば都」などと軽々に考えてはいけない。

拉致被害者の思いと重なるではないか。

天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも


御蓋山(三笠山)は今も変わらずにあり、古人を偲ぶ縁となっている。

阿倍船守の長男として大和国に生まれ育った仲麻呂も、御蓋山は望郷の対象そのままだったはず。

現代に生きる我々とて、月を見れば懐かしい人も今この瞬間、同じ月を仰いでいるのではと思い、故郷の山河を脳裏に浮かべれば、肉親を想い、瞼の裏を熱くする。

故郷の記憶は鮮明で、その記憶を反復するたびに、その鮮明さが増すことに気づき、また故郷を強く恋しく思う連鎖となる。

わが盛りまた変若(をち)めやもほとほとに寧楽の京(みやこ)を見ずかなりなむ   大伴旅人

万葉集巻三にある歌で、「帥大伴卿の歌五首」の一番目に載っている。

帥は大宰府長官を指すので、旅人の歌とわかる。

「変若めやも」は若返ることなどありはしないの意で、自分の若さの盛りはもう戻っては来ないだろう、たぶん寧楽の京を見ずに…。

旅人60歳過ぎの歌とされていて、この歌を詠んで2年か3年で京へ戻された。
しかし帰京してわずか1年後に、67年の生涯を閉じている。

朝廷と藤原氏が強力なタッグを組んだ時代は以後も続く。
ちなみに御蓋山(三笠山)は三輪山同様に禁足地なので、入山はご法度である


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