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学校の不登校対応にひとこと

不登校はダメなことなのか?


教師は不登校生徒を学校に来させることが正解なの?。私はそうは思わない。なぜ、毎日学校に来ている生徒の方が、そうでない生徒より良し、とされるのか分からない。担任は、自分のクラスに不登校生徒がいると、「どうやって、登校へと導くのか」について考えさせられる。別に学校に来なくてもいいじゃん、と正直ずっと思っていた。親もそうだ。なんでそんなに申し訳なさそうにするの?本人だって、すごく辛そうだ。みんなが行っているからって、別に嫌なら学校に行かなくたって全然問題ない。みんなができていることを自分は出来ない、って悲しくなるみたいだけど、あなたの居場所はここじゃないだけ。特に、小中学校は、住んでいる場所で勝手に割り当てられた環境だ。(公立の場合)あなたが選んだわけじゃない。そんな場所に、こだわらなくてもいいし、ましてや我慢なんかしなくてもいい。マイナスの感情と闘うためにたくさんのエネルギーを使ってる。でも、自分のためにそのエネルギーを使ったらいい。そして、輝いている姿を親や教師や、友人に見せつけたらいい。それでも、学校に来い、なんていう教師の言葉は放っておいたらいい。


統一化したがる学校

学校は、「みんなと同じ」というのをとにかく重要視してしまう。勉強にはカリキュラムがあるし、評価もつけなきゃいけないし、時間割も決まっているし、教科書を網羅しなきゃいけないし、という言い分も十分に理解できる。私も、授業中立っている生徒がいたら、座ることを促すし、教室から出ようとしたら、戻ってきて~と指導していた。でも、なんていうか、そんなに真面目に授業受けなくてもいいんじゃない?ともずっと思っていた。納得できないことがあるなら、無理にいい子にならなくてもいい。私が中学生だったころ、置き勉(学校に教科書を置いて帰ること)が禁止だった。でも毎日置き勉していた。教科書が無くても家で復習できるし、重たいし。(家から徒歩2分だったけど。)自分なりの考えがあるときは、しっかりと押し通したらいい。教師は困るかもしれないけど、そんな対応も結構楽しいもんなんですよ。


正解を求める学校

学校は、とにかく正解ばかりを教え込んでいる。でもそれは、正解以外を排除しているということ。だから、不登校=不正解みたいな雰囲気がある。私は、道徳の時間にLGBTを扱いたくて、授業の準備をしていた。周りからの反対はもちろんあった。中学2年生相手にはふさわしくないのではないか、わざわざそんなセンシティブな内容を扱わなくても。無難に行こうよ、等々。正解がないから、反対されたのだと思う。性教育にしたって同じだ。直接的な表現を避けすぎて、性教育でもなんでもなかった。中学生は最も性についての情報が必要な時期なのに。避妊についても議論したいし、そもそもセックスとは何かだって私はみんなで話したい。性についての直接的な表現は、NG(セクハラ)みたいになってしまっている。でも、そうやって逃げてたら、彼らを守れない。知る機会が無い子どもはネットで調べるしかない。ネットの情報だけで本当にいいの?私たちの実際の声を聴いてもらうことも大切なんじゃないの?「正解なんてない。」「自分の信じられるものを見つけたらいい。」という勇気が生きるためには必要。だから、学校という場所でみんなで悩んで、もがきたい。教師は怖いんです。批判されるのが。自分のものさしで測れない事象が。だから、手中に収まるように、収まるようにしている。だから、気にしなくたっていい。

最後に(メッセージ)

児童生徒さんへ。学校で習う正解が、正解なんて思わなくてもいい。自分の本当に信じられるものを大切にしよう。不安な気持ちになったら、抑え込むのじゃなくて思いっきりぶつけよう。受け取ってもらえなくても、他の人にぶつけよう。おうちの人へ、学校が全てじゃない。今は世界の選択肢が溢れている。子どもの選択肢は無限にある。安全基地になろう。子どもを信じよう。先生へ。自分の価値観を押し付けていないか、振り返って欲しい。児童生徒の方が立派なこともある。学べることは児童生徒からも謙虚に学ぼう。

私が発言できる場所があることに感謝します。

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