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言葉にすること。

言葉にする、というのはかなり高度な技術だと思う。と同時に、なんて素朴な営みなんだろう、とも。今現在原稿かかなきゃとうんうんうなりながら、こうやってnoteに書いているのは、この「言葉にする」ということの奥深さを感じ始めたから。

私はよくスマホにメモをする。それは例えばこんなこと、

動いているバス、流れ込んでくる風が心地いいようやく五月。



思ってしまうことを掬い上げる

ぷかぷかと浮かんだものをお玉で、あるいは穴杓子で掬うのだ。救うのだ。



たとえそれが何の役にも立たない灰汁だとしても。

そうやって、浮かんできたことを掬い上げる作業が、言葉にすること、だとも思う。
だとも、というのは、そうではない側面もあるから。ふと浮かんできたことを掬い上げずに置いておくと、じわりじわりと発酵する。それをいい塩梅で取り出して、お日様に干したり、また漬けたりして、待つ。その時の衝動では出会えなかった言葉がだんだんと浮かんでくる。それを整えて、言葉にする。前者は好きに真っ白いキャンバスに描く、という感じだけれど、後者は色糸を一本ずつ選び、刺繍していくかのような。

私は前者を選びがちだけれど、後者を頼まれることもある。どちらにせよ自分の心という甕の中を覗いて、もやもやとした藍甕に布を浸して引き上げたら見事な青が出てくるみたいに、言葉にしていく作業は自分自身が今どんな色なのかを確認していくようで面白い。

けれど、人は悲しいかな、記憶がすっかり飛ぶのを忘れしまったりもする。あの日、あの時、あの場所で、確かに感じたはずなのに、掌に握ったはずなのに、砂のようにポロポロ、うなぎのようににょろんにょろん、いなくなってしまうんである。

というわけで今私はうんうん唸っています。そしてもう無理だ外に出て4駅先の映画館にわすれちゃった折り畳み傘とりにいこうかなとか思いながら、穏やかに晴れた青空を眺めるのでした。


山吹と黄泉をかけた大昔の人の言葉のセンスすごすぎと思いつつ。


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