見出し画像

【陽キャ哲学】メリトクラシーとメリークリスマス

メリトクラシーとメリークリスマスって何か文字面が似ている。タイポグリセミアってやつだね。

ある陽キャ哲学者

リベラル側の論客からよく聞かれるメリトクラシー批判だが、私は非常に懐疑的である。確かに境界性知能問題などの人間生来の能力が持つ格差は明確に存在するだろう。しかし、格差問題の説明においてメリトクラシーを問題の中心に据えようとするのには違和感がある。メリト(長所)として設定されている項目は大抵の場合、情報処理能力である。学力偏差値を前提とした個人のポジショニングを社会的メリト(長所)として位置付けている点が違和感なのである。かつての日本は一億総中流社会と呼ばれ、金融資本的な格差が少ない国であった。現在は中流が崩壊し、富裕層と貧困層の割合がジリジリと増加している。学力偏差はその性質上ベルカーブを描いており、境界性知能の割合がここ数年で増えた事実もなければ、高知能ギフテッドが増えたという事実もない。ではなぜ、リベラル界隈ではメリトクラシー批判が盛り上がり始めているのだろうか。また日本以外の国にも知的格差は存在しているのに、日本と他国で国民の幸福度に大きな差が生じるのは何故だろうか。今回はメリトクラシー批判を批判的に検討していこうと思う。

仮説としてのIQ

まず思い付くのは知的格差を暫定的な格差の指標にしているという仮説である。イタリアの大学で行われた『運と才能に関する実験』がイグノーベル賞を受賞した。この研究については色々なところで言及されているため詳細は割愛するが要するに、金銭的成功を収める際に、運の良さが能力の影響を凌駕するというものである。平均的な生活は生まれた国によって違う。多くの個人が平均的な生活を送ることになるのだが、その平均も生まれた国によってベースが異なるのである。平均的な、もしくはそれ以上の才能を有していても生まれた国が経済的に弱ければ、全世界的に見れば相対的に弱者になってしまう。運は重要な要素だが如何せん定量さに欠ける。定量化出来ないものは社会科学として採用することが難しいため、IQと資本という目に見える相関関係を格差の因果関係のように説明しているだけなのではないだろうか。日本という国が国民に与えることのできるチャンスの総数が減っており、数少ないチャンスを掴むことのできる人は、チャンスに近いところにポジショニングできる人ということになる。この再生産に目を瞑ってしまっては本末転倒である。国が経済的に貧しいので、中流が解体され底辺に吸い寄せられている。教育機会の平等は素晴らしい理想だが、日本の問題はそう簡単ではない。事実、日本の大学進学率は1960年代後半から右肩上がりである。国の教育水準は専門家たちが危惧するよりも悪くはない。『大学全入時代においてもIQの格差は存在するのではないか』という批判を受けそうだが、その言葉を裏返せば、教育機会の平等は教育格差の是正には役立っていないということになってしまうのではないだろうか 。もっと別の問題があると考えて考察を進めよう。

役割の減少

三種の神器という言葉がある。テレビ・冷蔵庫・洗濯機のことである。これらは昭和の一般家庭のあこがれの対象であり、これらを買い揃えるために当時のサラリーマンは日や汗を流した。現代では、これらには神器と呼ばれるだけの魅力はない。冷蔵庫を買おうと思えばメルカリで8000円出せば国産メーカーの冷蔵庫が手に入る。液晶テレビであれば、5000円出せば十分だ。新しい商品を買い続ける消費者たちが中古品市場に流した商品が飽和しており、生活家電は新品に拘らなければかなり安く手に入る。現代市場は必要を生産するよりも余剰を生産することで利益を得ている。余剰を消費するのは、余剰資本を有している人々であり、彼ら彼女らのニーズを満たすことが、生産者の懐を満たすことに繋がる。必要は生産側も消費側もとても小さな経済的インパクトしか与えないのである。必要の生産にはクリエイティブやマーケティングは殆ど必要なく、一番の機械化対象である。日本国内で自給自足されている穀物はほぼ全て兼業農家により生産されており、価格も安い(唯一米にだけは高い関税をかけ値段を維持しているがブランド価値は殆どない)。安い商品を安い費用で作っているため人員も不要になってきており、社会的な意義のある仕事は一部の層が独占している。悪い言い方をすれば、日本国民の多くが刺し身に菊の花をのせる仕事をしていると言っても過言ではない。陽キャ哲学において能動性を奪い合うという概念を提唱したが、表面的な役割は現在でも大体的に奪い合われている。能動的な行動力は訓練によって培われるが、社会は経済活動としての能動性を持て余している。日本国内の中流が減少するに伴って内需で、余剰を奪い合うということにも効率の悪さが露呈しており、インバンド需要対応にも二の足を踏んでいる。経済活動において能動性を活用することは上述した理由で難しいため、非経済活動で能動性を提示することが求められる。そのためには人間同士の相互触発が不可欠になるが、コロナ禍では『不要不急』というワードによってリアルの活動も抑制された。

そもそも人間は社会的動物であり、経済や金儲けに執心する人間であっても『不要不急』は心身の健康に悪影響である。日本経済の問題を語る番組では、イノベーションや生産性が問題視されることがよくあるが、それは本当の問題なのだろうか。日本に足りていないのはイノベーティブな商品やサービスではなく、それを購入したり使用したりする消費者側の能動性なのではないだろうか。日本人はiPhoneの普及率が高いが、クリエイターは少ない。iPhoneは全ての型がハイエンド仕様である。動画編集や音楽制作はiPhoneで行うことができるが、殆どの人がLINEやYoutube鑑賞にしか使っていないのではないだろうか。プロダクトがイノベーティブであることにはたしかに価値があるが、それはあくまでも経済活動を活性化させるという小さい世界での話である。消費者を教育せず、能動性を搾取する構図は一部のプラットフォーマーにとっては金のなる木に成り得るが、日本人全体の能動性は確実に失われている。今日本に必要な取り組みはイノベーションではなく、国民に能動性を取り戻すことなのである。

能動性の回復

メリトクラシー批判では、実力主義は平等性を欠いているという主張がなされる。生まれ持って発生してしまう差を再分配によって穴埋めしようという考え方には大義があるように思える。しかし、それは本当に持続可能なのだろうか。魚を10匹釣れる釣師から4匹の魚を回収し?1匹しか釣れなかった釣り師に分配する。これで魚の数は平等だ。もちろん、釣り師自体の能力は明日も明後日も変わることがないから繰り返し再分配を続ける。メリトクラシー批判では能力という言葉でこの4匹の差を存在するものとしてきて黙認したうえで再分配を目指している。教育水準が上がったところでIQによる差は厳然と存在するものというのがマイケルサンデルを始めとするアンチメリトクラシー論者の主張だからである。しかし、私はIQや身体的な特徴など変えることのできない資質にフォーカスする福祉には意味がないと考える。ベーシックインカムに勝ちがあるのは、創造性という定量化できない(出来るかもしれないが不可知の方が良い)能力にかけて平等に金銭=時間をあたえるという取り組みに注目が集まっており、陽キャ哲学的にも価値があると考える。メリトクラシー肯定派も否定派も、メリト(長所)として思い描いている能力は共有している。それは親世代以前から継承されてきた経済と密接に結び付く価値であり、局所的な権力である。確かにそれらは皆が持つ自然な(もしくはそう思わされている)欲求であり、それらを求めることは否定のしようがない。しかし、求めるがゆえに持たざる者同士の内ゲバが加速しているという面に目を瞑ってはいけない。お金を生まない創造性に吐きかけた唾は、回り回って自分にかかることになる。ニコニコ動画文化の一翼を担い、Vtuberを日本武道館に連れて行くまでに成長した『歌ってみた』というコンテンツは、当初インターネットカラオケマンなど揶揄された。ただ他人の歌を歌うという行為にも、文化を作り経済を逆転する力があるのに、出る杭を打ったせいで多くアーリーアダプターたちは潰されてしまった。メリトクラシーを語る前に、メリトとして認められていない能力を議論の土俵に上げることが重要だと考える。多くの人を生き辛くする旧来的能力の呪縛から目を覚ますのは難しい。小学生の段階で、親が貧乏であることをイジリ合う姿はよく見られる。それだけ社会に強く根付いている信仰なのだ。心の中で批評的な意識を持つ性格の悪さが薄暗い日本社会の処方箋なのかもしれない。

まとめ

私はクリスマスにこの記事を書いているが、スーパーやコンビニは頻りにケーキやチキンを売ろうとしている。クリスマスを祝う人が増えて、それらの食品の売上が上がることは良いことである一方で、クリスマスに毎年毎年チキンを食べるという停滞からの脱却を試みている人達がいることも私の希望である。クリスマスにスパゲティや鍋焼きうどんを食べた皆様にメリークリスマス!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?