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BASIC THOUGHT 思想の再分配

コロナ禍で囁かれたトンデモ理論は沢山ある。反ワクチンやQアノンなどの陰謀論的カルトが人々の不安に付け込み猛威を振るった。その中でも一番腹立たしいプロパガンダが『失業者の増加と自殺の関係』である。企業はコロナ禍で持て余した労働力を新卒採用を抑えることでカットした。結果として、若者の失業率は増えて、自殺者が増加したというニュースは真実味があり、理にかなっていそうに見える。また横浜市立大学や慶応大学などの研究機関は、失業と自殺率の相関関係を前提とした確証バイアスで研究論文を発表した。彼らの言い分では、コロナ禍での女性の自殺率増加は女性の経済的困窮と強い相関関係があるのだという。第一回目の緊急事態宣言が発令されたのは2020年4月7日であり、新型コロナウィルスが5類感染症に格下げされたのが2023年5月8日である。たった3年間のデータだけをみてコロナ禍に起こった事象を分析することは難しい。データが少ないために様々な解釈が可能になっている。そのため統計学者と社会学者の思い描いたストーリーがさも当然のように語られてしまうのだろう。厚生労働省は以前から、自殺者数の内訳において、経済的問題及び生活問題の割合が減少していることを指摘している。自殺という究極的な行為は複数の要因が絡み合って発生するものであり単一の原因を追究すること自体おかしいのだが、経済的に豊かな日本で自殺率が上昇する理由に経済要因を持ってくる違和感には役人も気が付いているようである。失業=不幸という旧来の図式を用いて、有効求人倍率を増やし、完全失業者の割合を減らすことが国民の幸福に繋がると短絡的に考えている研究機関は盲目的である。今回は失業率が増えれば国民は豊かになるというケインズ以降、素朴に信じられている経済学の常識を打ち破りたいと思う。

ベーシックインカム(BI)

政府がすべての個人に無条件で一定の所得を支給するという仕組みをベーシックインカム(以下、BI)という。BIはAI時代の到来とともに失われる従来の雇用に対する対抗策として期待されている。北欧の福祉大国では失業率が8%を超える国も珍しくなく、大量の失業者をどのように資本主義の枠組みで定義すればよいのか議論がなされている。民間は労働者に高い賃金を払い続けるよりも、業務を自動化することで生産体制の効率化を図ろうとする。資本主義の原理は無慈悲にも、多くの労働者から居場所を奪うことになるだろう。従来の仕事は減ることが確実であるのに、新しい雇用を創出せず失業率を減らそうと考えることは狂気の沙汰である。AIが必然であるならば、BIもまた必然である。BI反対論者も一部の過激な感情論者を除いて、財源確保の難しさという実行可能性に疑いを抱いているだけで、BIの仕組み自体に異議を唱えているものは少ない。私は財源問題はなし崩し的に解決されると考えている。失業者が増えれば、生活保護受給者は増えるため、国家予算における福祉の割合が高くなる。失業者解消の労力と社会福祉による圧迫の損益分岐点に達した時、既存の福祉はBIに取って代わられる。既存の福祉も不可能であるならば、いっそのことBIを既存の福祉に代用するしかないという諦めが発生するわけである。既得権益にとっても日本が日本としての文化と治安を維持することにはメリットがある。日本の既得権益は日本という泥船の中では強い力を持っているが、グローバルな戦場では力を持たない。旧体制側の保守性を利用して、各人が最適な再分配を享受できるように動くことが日本の希望になりえる。ベーシックインカムの素晴らしさを唱えだせばキリがないが、これは時間が解決する問題であり直近のAI脅威論や寝そべり俗的な厭世主義ムーブメントへの対処法として、思想哲学側の視点で何ができるかを考えていかなくてはならない。ベーシックインカムが生活上の金銭面の問題を取り扱う社会政策である一方で、本記事の冒頭で述べた経済的問題以外での自殺者の救済やSNS上でのアップデートなきイデオロギー対立の加速など、社会インフラの整備だけでは解決できない問題を変えていくのが我々思想家の社会運動である。このような社会問題に個人が取り組むのは一見すると偽善的態度に映るかもしれない。しかし後述するように、実は変革者側にもメリットはある。AI時代への過渡期である現代では人間のエネルギー効率がすこぶる悪い。イデオロギーで戦争している2つの勢力は実質の戦争状態である。ドイツの思想家カール・シュミットはヘーゲル的な弁証法は平和を前提としており、戦争が始まれば二項対立が復古すると述べている。ゆえに戦争は、敵と味方の区別を明確にし政治を機能させるのだという。シュミットは個人主義にも言及しており、平和状態では個人主義が機能し、弁証法が機能すると述べていたが現実の日本を見渡せばそのような理論が机上の空論だったことがわかる。人間は常に戦争状態であり、リヴァイアサン(君主)による統治を求めているのである。人間には糖分への欲求という機能が内蔵されており、自制を働かせなければ肥満になる。これと同じで、人間には思考停止による行動のオートメイション化によって、思考に無駄なリソースが割かれることを防いでいる。自発的に哲学しなければ、精神の肥満≒思考停止になることは当然である。さらに思考停止よって有り余ったエネルギーが暴走して、社会に悪影響を与えているのが今の日本の世相であるので、社会の適切なエネルギー分配は変革者の責務であると考える。

匿名ギャングとエネルギーの分配

私は力の偏りに憤っている。インターネット空間では匿名勢力が強い権力を保有していると考える。匿名性は、個人の思想を複製して人数的多数を作り出すことができる。これは平野啓一郎の提唱する分人主義や個人勢Vtuberといった『時間や空間ごとに個人が別の人格を楽しむことができる』というアイディアとは似て非なるものである。イデオロギーは人格と強く結びついているということは誰も否定できない。経済活動を行う空間と恋愛活動を行う空間という複数の空間において個人が持つそれぞれの一面を切り出して、別のアクションや発言を行えるということが、分人主義であり匿名性の有効活用であったはずである。これを悪用して思想を多数決の原理でコントロールする勢力がいる。私はこれを匿名ギャングと呼ぶことにする。多数決のコントロール手法として、以前から力を持っているのが複数アカウント、所謂複垢である。匿名ギャングはアカウントこそ単一であるものの、発信者の背景や属性を明確にせず意見だけを垂れ流し続ける。時事ネタに対して、自身のポジションからイデオロギーに沿った発信だけを続けるので、持続性と一貫性がある。そのため、インターネット空間での発信は彼ら彼女らの言葉に占領される。複垢のように人数を多く見せかけて、量で意見空間を支配しようとするのではなく、島宇宙を島宇宙のまま拡大しようとする新しい動きであると考えられる。また統合失調症のような自己の世界観を社会に優先させるというような働きとも異なり、自分のイデオロギーこそが社会であるという社会に対する願望の可視化であるとも考えられる。それぞれが否定するものを以下に羅列してみる。

複数アカウント→多数決の原理の否定(戦争)

匿名ギャング→他のイデオロギーの否定(戦争)

分人主義→統一的な自己の否定(中立)

統合失調症的な世界観→社会の否定(無関心)

我々思想家は大なり小なり統合失調症的な発想を持っており、世間のイデオロギー対立や功利主義に対しては関心が薄い。前述したように戦争状態では弁証法が機能しないからである。弁証法が機能しなければ、議論による思想のアップデートは望めないので、そこで生産されるコンテンツは反復的な快楽物質でしかなくなってしまう。複垢や匿名ギャングのやろうとしていることはインターネット市民に対する愚民化政策である。イデオロギーで対立構造を作り出し、味方からは金や可処分時間を搾取する一方で、敵対する外部勢力に対しては中傷や人格攻撃をうまくカモフラージュしながら繰り返す。『社会が悪くなっているのは○○の所為である』という救世主的な宿敵設定を行うが、自身は何もせず危機感を煽ることしか行わない。匿名ギャング側は儲かるかもしれないが、被搾取側の犠牲者たちは見えない敵と戦い続けるイデオローグになってしまう。私は以前から発信活動は顔出しが前提、少なくともVtuberとしてのアイコンは持つべきであると主張してる。それは人格として各界隈に影響力を行使するためには、自分が人格であるというアピールが不可欠だからである。自己主張は細分化され自身の分身となる。他人が自分の自己主張を代弁してくれたことを喜ぶのは人間の感情としては間違いである。あなたのポジショントークは、あなたしか行うことができないのであるから、右翼や左翼の論客、もしくはフェミ二ストやアンフェミの論客があなたの代わりに意見を言語化してくれているのであれば、その役目を彼ら彼女らはあなたから奪っているのだ。意見の一致率が高い仲間がいることは、一見するとよいことに思えるかもしれないが、あなたの存在理由を他者に代替されているということにも等しいのではないだろうか。

ベーシックソート(BT)

私は、人格的価値を全国民に等しく分配する仕組みを作りたいと考えている。他人(特に匿名インフルエンサー)が自分と似た意見や思想を発信した際に、衆目が集まるような仕方で『それは俺のアイディアだよ』と主張することである。このときに重要なのが、良し悪しや外部イデオロギーとの意見対立を差し置いて『自分がこの意見を発信している』という事実を強調することである。世間は他人の意見に興味がない。唯一あなたが世間から興味を持たれる瞬間があるとすれば、それはあなたが誰かの意見を代弁していると、その誰かに信じ込ませることができたときのみである。匿名ギャングたちは、共感をフォロワーから集めて収益化している。ギャングの主張や意見に対して『当たり前すぎる』『それは俺が10年前に言っていたことだよ』と何度も主張することで、一般人も同じ意見の論客からも能動性を搾取することができる。ベーシックインカムは財源の問題から、個人がどうにかすることは難しい。しかし、何者でもない陰キャラたちに思想を再分配することは可能である。これはベーシックインカムならぬ、ベーシックソート(basic thought)、BTである。意見や思考の質が同じならば、人生を背負っている顔出しや個人Vtuberに分があると考える。AIに対する対抗策として、人間の捻くれた考えや非論理性を使った戦い方が求められているのに、人格と意見を切り離すような思想醸成のやり方では、AIの前に共倒れになることは必至である。これは統合失調症的教祖の取り組みとして抽象的ではあるが、陽キャ哲学体系の中で紹介している。やったことは悪魔的であるが、オウム真理教の教祖である麻原彰晃は妄想を社会変革へのパワーに変換する力を持っていたという意味では間違いなくカリスマである。しかし、麻原彰晃やその他カルト教祖の失敗として、信者が外部から思想を集めてくるよりもお金や知名度を集めるという副産物集めに執着してしまったことがあげられる。一人のカリスマと残りのBOTたちだけで大国を作り上げた偉人はいない。共同体はすべての成員が考えて自走しなければ、早い段階で崩壊してしまう。教祖に支配欲があるならば、信者にも同等の支配欲がなければ釣り合いが取れない。漫画デュラララの主人公である竜ヶ峰帝人は、リーダー不在の巨大インターネット集団ダラーズを創設した。我々が人間としてリヴァイアサンを求めるのは仕方ないと既に述べたが、リヴァイアサンは単一の教祖やアルゴリズムであってはならない。人は思想を持ちたいと思う一方で、誰かに思考や責任を丸投げしたい我儘な生き物なのだ。これは我々が金持ちになりたいと同時に、働きたくないというアンビバレントな欲求を持っている構造に似ている。経済の生活保護受給者になっても、思想の生活保護受給者になってはいけない。またラクには抗うほうが良いことは間違いない。











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