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先が見渡せること

先行き不安な社会。今日3月3日はお雛様を飾って、カラフルなひなあられを食べて、学校では3色ゼリーが出る、1年で一番楽しみな給食の日なはずなのに。コロナウイルス感染者が国内外で次々に増え、わたしが生きた四半世紀最大の人類の危機とも、「戦時中」とも言い表されたりするここ数週間。ついに学校も休校し、卒業式や少し先の入学式までなくなってしまう事態が相次いでいる。それでなくても、自動化、AIの発達、IT化、超少子高齢化、わたしたちが生きる21世紀の社会は一歩先が見えない。休み時間になると隣に友達がいるはずなのに、スマホを見つめる子どもたちがほとんどだ。これからどうなっていくのだろうか。

先月末で学校の教員を辞めた。最後の日に、副担任をさせてもらっていたクラスの子達の卒業式に参列し、たくさん笑って泣いた。先述のコロナウイルス感染予防の観点から、卒業生236名と保護者、教員が一同に会すはずだった卒業式はクラス単位に、放送で、外来者はお断り、というものに変更された。十分に楽しかったけれど、感動したけれど、とっても残念でならなかった。この子達の高3の卒業式は、今日しかないのに、と。でも、彼らはその小さな卒業式を楽しんでいた。涙いっぱいの目を隠すために顔を隠しながら、時には嗚咽しながらたくさんの感謝の言葉を述べて。ありきたりな言葉を述べた生徒もいた。前日のお風呂で考えてきた草案通り、きれいな言葉を述べた子もいた。担任の先生は彼らひとりひとりを分析して、一枚一枚内容が違う学級通信を出した。そこで、最後の叱咤激励をされていた。厳しくもあり、あたたかさももちろんある、彼にしか書けない言葉たち。徹夜で書いたとは思えない豊かな表現の数々は、理想の国語教員の姿そのものだった。この日、過去の卒業式史上一番泣いた。そして、彼らはそれぞれに母校での思い出と進路への希望を胸に、それぞれの道へと堂々と、強い足取りで羽ばたいていった。

次に就く塾講師という仕事での歴は5年ほどある。ただ、この改革が乱立する社会で、入試という一旦のゴールも変わりゆく中で、先頭に立ってこっちだよ、とはどうしても言えないのだ。わからないから、怖い。これは人間としての本能であるからしょうがないのだけれど、先日卒業してきっと今頃ははじめてのヘアカラーをしているだろうあの子達のように、新しい時代を、新しい生徒たちと嬉々と迎えたいと思ってしまう。

「彼」の彼女歴は浅い。でも、それでも、彼の隣にいることはもう決定事項のように、当たり前になってきている。わたしは月に一度運転するかどうか、というペーパードライバーだけれど、日本の運転免許取得までのシステムはすごいと思っている。確かに、縦列駐車やバックでの駐車はできないけれど、前回の運転から少し間が空いても、ちゃんと注意を万全にすれば安全に運転できるように身体が憶えているくらいには「運転スキル」を習得しているのだから。教習所に通っている時は目線が車のすぐ前で止まりがちで、一時停止の標識を見逃して実技テストに落ちたこともあるくらいだった。でも、今は、ちゃんと顔を少し先の信号や標識、前の車やカーブの方向に向けることができるし、先行きが見えるので、急ブレーキもしなくて良くなった。彼と一緒に一歩ずつ人生を前へ前へと歩く感覚は、この感覚と似ている。横道や後方に気を取られることなく、すぐ先よりももう少し先を見る余裕がある。横道や後方を見ないわけではないけれど、凝視することは決してない。教習所の外に出て運転した、あの少し先を見る感覚がとても好きだった。それは、余裕があるときにしかできないから。ついつい車の直前を見て、横道から出てくるとっさのなにかをいち早く見つけようと予防線を張ってしまうから。きっと、彼となら、少し前を見ていられる。こんな薄暗い社会でも、すぐ先の未来を怖がらず、顔を上げて、少し先を見ていける。目線は先へ、そこまで続く道を信じて、力強く、前に足を踏み出せるから。

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