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コーラの角煮となんでもない日のケーキ

1月の末の日、彼に会いに東京に行った。人混みは苦手だ。だけど、日本一人口の多い、マスク以外のものが充実した日本の中心に行くことは、最近日々の楽しみに、そして日常に、なりつつある。

わたしたちは夜行バスに乗りこむ前日の晩に『やりたいことリスト』をLINEのnoteにつくった。色の話をする、夏生さえりさんの『やわらかい明日を作るノート』にたくさん書きこむこと、太巻きをつくること。。その中に、「なにもない日のケーキ」があった。書いたときは完全にふたりともノリだったし、わたしは実現するとは思っていなかった。

彼の帰りがとっても遅かった金曜日。いつもどおり8:28に出ていった彼は、31日の金曜日は世にいう「プレミアムフライデー」のはずなのに、23時半すぎに帰ってきた。晩御飯はこちら。(洗濯物が干してあるのも日常の現れと思ってあたたかく見守ってほしい。)

「日本酒飲みたい。」のわたしのひとことに乗ってくれた彼がたくさんの食材と料理を提案してくれて、母がレシピを教えてくれて、実現した品々。普段なら19時や20時の間に「おわた〜〜」とくるLINEが、全然来ない。一緒に暮らしていないわたしには、15時に来た「終わりが見えない。遅くなる。」のLINEが示す時間がわからなかったし、待っていた時間は果てしなく感じた。新しい仕事の研修資料を読んだり、江國さんの本を読んだり、洗濯機を回してみたりしたのに、全然時間が経たなくてまいった。かと思えば、例によって夜行バスで一睡もできなかったことが起因して、寝落ちしそうになったり。ひとを「待っている」から暇なはずなのに、なんだか心がばたばたした夜だった。彼から「遅くなってごめん。いまから帰る。」とLINEがきてすぐに、夜な夜な、75分煮込んだ角煮をあたためなおして、マグカップで熱燗をつくって待っていた。

だれかのためにこんなにも時間をかけて料理をしたのは久々だった。料理はお教室の先生方のおかげでかなり上手になったし、作れないものも減った。たまにはケーキも焼くし、料理を友人に振る舞うこともしばしばだ。だけど、2時間もキッチンに立って、ひとりのひとのことを考えてつくることは、めったに無い。たとえそれが料理教室に通っている意味を薄れさせることになろうとも。でも、だれかを待ちながら、だれかのために料理をするしあわせは、一度味わってしまえば、こんなに仕事が好きなわたしでも、「専業主婦になって毎日やりたい。」と思ってしまうほどのものだ。

寝ててよかったんだよ、とわたしを気遣ってくれる言葉。(待っててくれてうれしい、という言葉だったらきっと泣いていた。)おいしい、おいしい、と食べてくれるその笑顔。角煮へのコーラがそうだったように、彼の発するそれらがじわっとわたしの胸に染み渡っていった。

翌日はすこしお買い物に出た。おたがいに買いたいものがあったので、彼のガイドについて、するすると買い物を済ませた。ひとりだったらあんなに悩んだお花選びも、彼とは一瞬だった。彼の好きな、ちいさなお花がたくさんついたお花に心を惹かれ、即決して暗めのブラウンの紙にくるまれたそのお花を大事に連れて帰る。両肩がいっぱいになるくらいに食材も買い込んで、うちに戻る。帰りの坂道で息があがってしまうのがいつものことになりつつあるこんな日々を送っていると、心臓はとっても苦しいのだけれど、でも心は和やかなのだった。

家に帰ると海鮮を冷蔵庫に入れることも忘れて――かろうじてアイスは冷凍庫に入れたのをえらいと自分を褒めたいのだが――、ふたりはその日一番の楽しみに心を奪われていた。このときのために京都から持ってきたと言っても過言ではない、2つめのマグカップにコーヒーを淹れてくれた。

彼の家にはマグカップが1つしかなかった。厳密に言うと、4つあるのだが、1つは歯ブラシがさしてあるし、2つは筆ペンやボールペンがさしてある。コーヒーを淹れたり、熱燗を飲んだりするいわゆる普通のマグカップは、オーストラリアはシドニーの景色が描かれたそれしかなかった。小学生の頃、友人からの誕生日プレゼントでマグカップをもらうのが定番だった(本当にそれくらいたくさんもらった)わたしにとっては驚愕の事実だったが、そのただひとつのマグカップでシェアするコーヒーのおいしさを知ったのは、彼と出会ってからだった。前日の晩は熱燗を作って、この日はコーヒー。熱燗やコーヒーがこんなに落ち着くものだということも、実は彼と一緒に居るようになってから知った。熱燗といえば、バイト先でお客さんにいただくものだったし、コーヒーといえば、徹夜のときや残業のときなど、いわゆる「頑張り時」に飲むものだった。そこに合わせる「なんでもない日のケーキ」――しかもいちご付きで、お会計のときの彼のかっこよさを鮮明に思い出す――ったらもう、まさに格別だった。ふたりで撮影会をして、ひとくちひとくち味わっていただいた。

撮影会の間に気になったのが、ケーキの箱。おしゃれな、高らかになにかを歌い上げるベートーベンのデザインが印字されたその箱は、捨てるにはあまりにももったいないものだった。ケーキを食べながら部屋を見回し話して、帰ってきたら机に小銭をじゃらじゃらと机に置いてしまう癖のある彼の「貯金箱」にしようという話になった。

写真を撮る手、ケーキを食べるには少し大きなフォーク――しかもこの家にはフォークもひとつしかないのでひとりはスプーンになり、先端が嫌いなわたしがスプーンをとる――を持つ手も大好きなのだけれど、わたしは彼の「ものづくり」をしている手が一番愛おしいかもしれない。「ケーキの箱」を「貯金箱」にするため、カッターを取り出して器用に500円玉が通り抜けられる穴を開けていく。彼がカッターを取り出したと同時に、わたしがじゃらじゃらの小銭の中から500円玉を探し出す、というコンビネーションの良さから、そういえば中学から知ってるんだっけ、ということをふと思い出したりもした。

彼との生活は、傍から見たら「ふつう」の範疇におさまるものなのかもしれない。コーラで楽して作った、でも彼の留学中の思い出の味の角煮を食べ、熱燗を飲んで、買い物に出てちょっと道に迷ったり、一緒にお花屋さんに行って、彼のセンスに惹かれたり。「なんでもない日のケーキ」を食べ、せっかくもう一つ持ってきたのに、わざとひとつのカップで甘いコーヒーを飲んでみたり。だけど、桜色のような、ラベンダー色のような、金木犀色のような、おおきなおおきな、淡くてあたたかいものに包まれているような安心感を毎日たくさん味わっている。離れていても、こころにそのおおきな淡いものは残り香があって…というか、京都に帰ってきてもうかなり経つのにまだ包まれていて。

わたしはそんな彼との日々が愛おしくてたまらない。無性に、ひとに話したくなってしまうほどに。彼の魅力を、ひとりでも多くの人に伝えたいと思ってしまうほどに。このなんでもない、でもちょっとした特別感を備えた日々を、互いの手がしわしわになるまで続けられますように、と願っている。

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