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句読点のない文章

わたしはことばを教えている。本当は英語の教員なのだが、日本語を話せないと日本では確実に苦労するので、日本語も指導することにしている。

ことばを教えているからには、自分も正しい英語・日本語を話したいと思っている。英語の学習はアルファベットはもちろんのこと、「文を大文字ではじめる」、「文末にはピリオドを打つ」というルールを教えるところから始める。英語で"punctuality"とよばれるそれらのルールは、中学、高校、大学、と学年が上がっても、忘れないだろう。

でも、日本語ではどうだろう。わたしたちの世代は、即レスができるツールに囲まれて育った。メールから始まり、LINEやInstagramのDirect Message、FacebookのMessengerなどに変遷した。メールとLINEの大きな違いは、ひとつの画面上で双方のメッセージが見渡せるか否か。わたしたちが中学・高校生だった頃はLINEが出だした頃で、画面の小さなガラケーを手に、皆メールに夢中だった。ガラケーのその画面には、相手、もしくは自分のメッセージだけが映し出され、言葉のキャッチボール感はLINEのインターフェイスに比べてすくない。文の数も、今考えると今よりももう少し長かったように思う。そんなメールには、今にはない、「メッセージは相手、もしくはわたしのもの感」が強かったように思うのだ。ある程度の文量をつなぎ合わせるには、句読点が要り、顔の見えない画面上で感情をあらわすのに、絵文字もつけた。

大学生になったあたりでLINEに移行して、より短いメッセージを書くようになっても、句読点や絵文字をつけない文には違和感があった。ポンポンと句読点がない文章を「打つ」友人たちをすごいと思った。

つい先日まで、句読点のない文章を書くことはできなかった。どれだけ忙しくても、面倒でも、句読点か絵文字をつける文を書いていた。画面上でも、紙の上でも、同じだった。頭が固いな、と書いていて自分でも思う。

それが変わったのは、またしても彼に起因している。わたしたちはふたりとも関西人で、わたしは「おしゃべり」だが、彼の言葉数は少ない。いつも直感なわたしと対照的に、たくさんの色や形の違う葉っぱの中から、好きなのを「選んで」出しているような彼の言葉には、どこか雰囲気がある。自分の気持ちに一番しっくりくるものを選んでいく。chooseではなく、pickなイメージ。語尾にも気を遣っているように思うし、彼の言葉は引用符付きで、そのまま保存しておきたい言葉ばかりだ。

彼とやりとりをしているときは、句読点も絵文字もない文が多くなる。面倒なのでも、忙しくもないのだけれど。彼とだったら、彼の文だけぷつん、わたしの文だけぷつん、ではなくて、一緒にひとつの文章を完成させられるような気がするから。これからも句読点のない単文同士をくっつけて、ふたりの、ふたりだけの世界をつくれたらいいな。


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