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海のそばで暮らすということ

『海は浄化作用がある』と聞いたことがある。

海水に含まれるミネラル成分によって気道や肺を浄化し、機能が向上するという実益的な側面もあれば、盛り塩をするように「塩」にはそういったお清め的な役目もあるので目に見えない精神面にも機能するように思える。

東京に住んでた時も時折、気持ちが沈んでくると逗子海岸に行っていた。
確かに海をボーと眺めるだけで気分がスッキリして体が軽くなるような感覚があった。

今は毎日海のそばで暮らしている。
さぞ浄化されてもうすぐ透明になっちゃってもいいのではと思うけれど、話はそう簡単ではない。

私の感覚では「結構しんどい」である。
どういうことかというと、見たくないものまで見える。

浄化というとキレイなものだけを残して、不純物を取り除くというイメージ。確かに日帰りで逗子に行っていた時はそんな感じだった。

でもずっとそばにいると、その力に強く影響を受けるからなのか定かではないが、自分の心の底に沈めた重い不純物、すなわち自分が嫌だと否定してきた強いエゴまでも浮かびあがらせてくる。

今まではペルソナ(仮面)で覆って、見てみぬフリしていた部分がより透明感を持って眼前に現れてくるのだ。

承認欲求、差別、偏見、自己存在の基盤が揺らぐ感覚、トラウマ。

そういったものと対峙した時いつもの癖でまた海底へ沈めようとする

「これは私のものじゃない、もっと私はキレイなはず。」

と。
でも、もう嘘はつけない。
それを否定するのではなく、受け入れる時がきたのだと海は強く投げかけてくるように感じる。

そんな応酬が行われるのは正直しんどい。
身体にも出てくるものがある。
どうしていいか分からなくてもがく。

そんな折、違う次元から眺めた時の感覚も顕れてくる。

それは浮いてきた不純物は確かに不純物であるけれど、広い大海のほんの一部であること。

私のものであり、私のものでないこと。
種類は違えど人類がきっとみんな苦しんできた部分であること。

汚いものと見たら本当に辛くなるけれど、それは私たちの防衛機能でもあるから。
それは存在していて良い。ということ。

それらを受け入れてくれている「広い海」に、もうすぐ気がつけるかもしれない。

海のそばの暮らしはそんなことを予感させてくれる。

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