多古町飯笹・間倉 農村にわずかに残る鉄道の歴史
飯笹地区
篠竹の実を食べていたことからこの地名がついたという。竹に実がつくことはあるのだろうか?
如意輪観音
地福寺
大六天神社
道祖神
宇賀神社
集落から少し離れた台地にある。
道祖神・庚申塔
間倉地区
宇賀神社
石造物群
圏央道の工事に伴って最近移動したと思われる石像物たち。あった場所も大事な文脈なので移動させられるのは悲しいが、残るだけ温情というやつである。
五辻(いつじ)地区
前提として、行政区分上この地名は存在しない。間倉と飯笹の北側の境界をこう呼んでいる。江戸時代までは牧が広がるだけだったが、成田から多古へ鉄道が敷設されるにあたって五辻駅を設置。これに伴い人が集まり市街地を形成したのが歴史である。
稲荷神社
道標
北向き道祖神
町史を編纂していた時点で小石で足をさする老人がいたことが記録される道祖神。通常道祖神は南や東を向いており、北向きのものはそれだけ珍しい。地蔵なども北を向いているだけで「北向き地蔵」などと呼ばれがち。周囲の枝一本払うだけで祟られ病にかかると信じらてきた。おどろおどろしい一面がある一方で、急に産気づいた娘を助け道案内までした白蛇の優しい伝説も残っている。
行った日 : 2023/06/25, 2023/12/03
余談:軽便鉄道五辻駅
町史に記された軽便鉄道の話は読み物として面白い。詳細は読んでもらうこととして、興味深かったことを箇条書きでまとめてみた。
「陸軍のためのものだから感謝して使うこと」と千葉県知事が述べた。
周辺の村々は駅を置く場所を巡って激論を交わし陳情合戦も発生した。
工事予算は170,000円、軍人だけでなく地元民も人夫として駆り出した。
工事にあたって軍人を泊める場所は綺麗にしようねといった通知が町役場に届いた。
多古町から最も早くこの地に移住したのは島地区の宇井磯吉。
料理屋、雑貨屋、商人、運送業者が次々に店を構え多古を凌ぐ賑わいを見せた。
鉄道自体はかなりのろく、一旦降りて小便しても急げば間に合うほどだった。
飯笹→五辻の勾配がキツすぎたので砂を撒いて空転を防ぎ、場合によっては乗客が後押しした。
大戦末期、南方諸島の輸送力強化のために根こそぎ移設、五辻は農村として転換し今に至る。
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