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多古町飯笹・間倉 農村にわずかに残る鉄道の歴史


飯笹地区

篠竹の実を食べていたことからこの地名がついたという。竹に実がつくことはあるのだろうか?

如意輪観音

多古橋川にかかる橋に屋根付きのなにかが据えてある
用水路に伴う施設かと思ったら石仏だった
頬杖をついた如意輪観音

地福寺

でかい山門が見える
六地蔵塔
六観音
六地蔵の塔が六地蔵塔だからこれは六観音塔だろうと思ったら文献では六角観音と呼ばれていた
大師堂
無数の札が打たれている
でかい本堂
景色がいい
大六天神社近くの民家
洋館っぽいなと思って近づいたら普通に現代風のベランダがついてた

大六天神社

鳥居の根元にあるでかい丸石は力石に見える
草刈りしたばかりの綺麗な石段
小さな社殿がある

道祖神

辻にある小石と小祠の群れ
石を持ってって願いが叶ったら倍にして返すタイプと思われ、町史にはこの石でイボをさすって返すといったご利益が記録されている
残念なことに石材を投棄する場所になりかけていた
きれいに並べて柵までついている

宇賀神社

集落から少し離れた台地にある。

平らで長い参道をひたすら歩く
境内
きれいな服を着た二人の子供と質素な服を着た中央の少年
怒る父親と母親
題材は閔子騫
婆さんに寄り添っておどけてみせる老萊子
単体だと題材の特定は難しいが、他が二十四孝なのでだいぶ絞れる
牡丹と獅子
漢文帝が親のために毒味をしている様子
大舜
小鳥が舞い象が畑を耕すのを手伝ってくれるシーンだが小鳥の代わりに鳳凰が来た

道祖神・庚申塔

間倉へ向かうY字路
庚申塔
まぐら 成田山
さくら 東京みち?

間倉地区

宇賀神社

竹林が清々しい
このアングルが良い
素敵

石造物群

圏央道の工事に伴って最近移動したと思われる石像物たち。あった場所も大事な文脈なので移動させられるのは悲しいが、残るだけ温情というやつである。

五辻(いつじ)地区

前提として、行政区分上この地名は存在しない。間倉と飯笹の北側の境界をこう呼んでいる。江戸時代までは牧が広がるだけだったが、成田から多古へ鉄道が敷設されるにあたって五辻駅を設置。これに伴い人が集まり市街地を形成したのが歴史である。

囲んだあたりに駅があった
なお駅舎や線路の痕跡は全くと言っていいほど残っていない

稲荷神社

拝殿正面に柱を立てず神楽殿のような舞台として建てる様式は、多古町や横芝光町など周辺で見られる。新興の神社ながら地域の伝統を色濃く受け継いでいると言えそう。
境内の石碑
要約すると「駅設置に伴い人が集まったけど神仏とか何もなかったから笠間から勧請してきた」
神社だけど大師堂がある
fox
本殿

道標

町史によると江戸時代のもの
往来自体は昔からあったらしい

北向き道祖神

町史を編纂していた時点で小石で足をさする老人がいたことが記録される道祖神。通常道祖神は南や東を向いており、北向きのものはそれだけ珍しい。地蔵なども北を向いているだけで「北向き地蔵」などと呼ばれがち。周囲の枝一本払うだけで祟られ病にかかると信じらてきた。おどろおどろしい一面がある一方で、急に産気づいた娘を助け道案内までした白蛇の優しい伝説も残っている。

歩道のない道路沿いにあるので少し危険
隣には墓地があった
丸石や小祠の他にプラスチック製品が混ざっているが、これは現代に至るまで気負いなく信仰が続いている証拠と推測する。信仰している人が、気軽に手に入れられるものでかつ奉納したら嬉んでくれるだろうなと思う物であるはずだからである。

行った日 : 2023/06/25, 2023/12/03

余談:軽便鉄道五辻駅

町史に記された軽便鉄道の話は読み物として面白い。詳細は読んでもらうこととして、興味深かったことを箇条書きでまとめてみた。

  • 「陸軍のためのものだから感謝して使うこと」と千葉県知事が述べた。

  • 周辺の村々は駅を置く場所を巡って激論を交わし陳情合戦も発生した。

  • 工事予算は170,000円、軍人だけでなく地元民も人夫として駆り出した。

  • 工事にあたって軍人を泊める場所は綺麗にしようねといった通知が町役場に届いた。

  • 多古町から最も早くこの地に移住したのは島地区の宇井磯吉。

  • 料理屋、雑貨屋、商人、運送業者が次々に店を構え多古を凌ぐ賑わいを見せた。

  • 鉄道自体はかなりのろく、一旦降りて小便しても急げば間に合うほどだった。

  • 飯笹→五辻の勾配がキツすぎたので砂を撒いて空転を防ぎ、場合によっては乗客が後押しした。

  • 大戦末期、南方諸島の輸送力強化のために根こそぎ移設、五辻は農村として転換し今に至る。


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