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富里市十倉・御料 2 埼玉からやってきた開拓者


武州

武州稲荷神社

両国の南部にある武州地区。ここを南下すると八街、北上すると富里の中心街である七栄がある。
境内に富士塚がある
富士塚とは、富士登山と同等のご利益がある塚のこと。千葉県では市原市や木更津市など内房界隈で盛んに築造されたが、付近どころか千葉県北東部を見渡しても見られない。この手の風習は地域性があるため、ここにポツンと富士塚があるのは不思議だが、理由はこのエリアの生い立ちにある。
当地は武州と呼ぶが、これは武蔵国を指す。明治時代に旧入間郡からの入植者が開拓したことからこの地を武州と呼ぶ。私は埼玉の土地勘はないものの、入間郡周辺は富士塚が盛んに造られたという。入植者の信仰が開拓地に残っているのだろう。
社殿脇には遊具が並んでいる。
開拓地百周年記念碑
入間郡からの入植で開拓が成功したものの地主と小作人との間で騒動があったことが記されている。

商店跡

武州から七栄へ向か右途中にある民家。道路に面して生垣に覆われているが、塩小売や練炭のホーロー看板、庇が見えることから商店だったと思われる。

頌徳碑

生垣に囲まれた石碑。入間郡から入植した鈴木遥氏を讃える石碑である。

金刀比羅神社

市役所がある七栄との境界付近にある神社
八街市もそうだが明治以降の開拓に関連する神社はすべて稲荷神社である。ここの由緒はわからないが、ここも入間郡関係かもしれない。

野馬土手

十倉と七栄の境界にある土手。佐倉牧から馬が逃げ出さないように造られた。八街市や富里市には土手がよく残っており、藪になっていたりするので航空写真でも見つけることができる。

木製電柱

野馬土手沿いの民家にあった電柱
ほとんどは撤去されたり小屋の部材に再利用されているが、現役で残っているのはとても珍しい。

四区

大久保利通が牧羊地に指定したのは一区、それ以外の二区〜五区では西洋式農法が行われた。地名はその頃の名残である。

服部大明神

八街市朝日にまたがる陸軍飛行場の片隅に小さな薮がある
服部大明神。穴の空いた手前の石材は覆屋かなんかの基礎と思われる。
石造物自体に由来が刻まれている。市のホームページにはわかりやすくまとまっていた。

この地域で開拓が始まった頃に若妻ばかり病死する不幸が相次いだ。占い師(日蓮信徒)に占ってもらったところ、その昔、奥州から移り住んだ老婆が病に苦しみ狂い死んだ(石には「半身不随」「自害」など具体的な言葉が並ぶ)祟りが原因だと言う。これを祀ったところ祟りは概ね収まったとのこと。

御料牧場の開拓が始まったのは明治時代初期で、石造物は大正時代のもの。祟りかどうかは別として、これが古い伝承ではなくここ100年くらいの最近の出来事であることがわかる。

四区十倉神社

集会場と農作物集荷倉庫に挟まれた神社。
十倉・朝日地区にまたがる広大なエリアは旧陸軍の偵察部隊飛行場があり、終戦後復員した地元農家の次男三男が開拓を始めた。成田空港の造成が始まると空港敷地に住んでいた住民に土地を提供して今に至る。
石碑には今後住宅需要も増えるだろうと今後の展望も刻まれていたが、石碑を建てた4年後に十倉は市街化調整区域に指定。乱開発は急激に衰え、御料や七栄のような人口流入は無くなってしまっった。

金堀稲荷大明神

滑走路跡の北端にある祠
五社稲荷宮
稲荷神社前に広がる農地

十倉神社

十倉神明神社

十倉のほぼ東端にある神社。鳥居脇の大きな石碑には「富里村二区 開拓五拾周年記念之碑」とある。石碑の裏に地域の歴史っぽい文言が刻まれていたが、逆光な上に文字が削れていてほとんど読めなかった。
境内

高松入

高松入神社

消防早期、防災無線、掲示板。地域の中心であろうことがわかる。
富里市高松の入り口にあたる場所なのでこの名前がついたのかもしれない。
文政7年。この地域も武州からの入植者が開拓したエリアだが、神社は江戸時代からある模様。
中央の紋章は「高松」を意匠化したもの。上半分は「高」、下半分は松の枝葉を表現している。
境内社
大正時代の阿夫利神社と道祖神小祠。

行った日 : 2024/02/10, 2024/02/24, 2024/03/02

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