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富里市七栄 三菱財閥の別邸と実験牧場


地理と歴史

富里市十倉と同じく、広大な平地に馬を放牧していたエリアの一つ。江戸時代は佐倉藩直轄の内野牧として馬の生産が行われ、明治時代に開墾が始まった。火災や台風に加え、入植者が農作業に慣れない武士や町民だったため開墾作業は過酷を極めたという。

末廣別邸

主屋

庭園には杉がまばらに生えている
古い石碑がある正面玄関
邸宅の裏にあったやつ
当時のものかはわからない
小規模な団地とかによくある給水塔
間取りがわかる看板
この建物は三菱から富里市に払い下げられ、国指定有形文化財に登録された
縁側
2024年3月現在入ることはできない
縁側に身を乗り出して見学
そのうち入れるようになるらしい
今は機材が置いてあったりする
正面から
別邸前に広がる農園

東屋

土間のみの建物
建築年は不明とのこと
おしゃれ
地元の子供が課外学習で調べた成果をまとめたものが展示されていた

石蔵

補修中で近づくことはできない
大谷石にスクラッチタイルを貼り付け鉄扉を備えた蔵

予備知識

三菱財閥の創業者は岩崎彌太郎で、弟が彌之助(2代)、長男が久彌(3代)である。この土地は彌之助が購入し、久彌が農場を設置した。
佐倉藩直轄の内野牧は民間に払い下げられ開墾が始まり、これが難航したため牧羊場として明治政府に買い戻され、再び払い下げられたのを彌之助が購入したという経緯をもつ。
江戸時代に牧だったエリアは投機対象として都内の富裕層を中心に買い漁られることが多かったが、この地は西洋の畜産実験場として経営された。畜産技術発展のため採算度外視の実験場という位置付け経営され、小岩井農場とともに農業における久彌の功績に貢献した。
社長引退後の久彌は趣味の農牧に本格的に傾倒するもののGHQにより財閥は解体、農場は払い下げられた。
末廣別邸は昭和初期に建てられた。東京の本邸を接収された久彌の終の棲家である。
(参考:末廣別邸で貰える案内の紙とWikipedia)

稲荷神社

十字路のすぐそばにある
十字路にあるスリランカレストランは言及するのも憚られるレベルで酷かったので取り上げない
広々とした境内
弘法大師
子安観音
明治以降に開拓したエリアは特に、弘法大師とセットで神社の境内に祀られていることが多い
かわいいイラスト
飛行機は成田空港に因んでいる
幕臣が入植した縁で紅葉山の稲荷神社を迎えたとのとこ
この石碑によると葵紋の銅製釣灯籠があるらしく、幕府との関係を物語っているそう
見つからなかったので、社殿の中にあるかもしれない
こちらは開拓50周年記念碑(大正9年)
都内の富裕層が開拓会社を起業して4万人が入植し、学校が建ち鉄道が通り繁栄していく様が記録されている
開拓100年記念碑(昭和44年)
疎開者と海外から引き揚げた人によってさらに人口が急増し、近くに空港が建設され今後ますます発展するだろうといったことが刻まれている
開拓150周年記念碑(令和元年)
これだけえらくこざっぱりしていた

行った日 : 2024/03/02, 2024/03/09

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