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421 京は遠ても十八里~都の食を支えた鯖街道を往く

北陸新幹線はこの春、敦賀まで延伸開業しました。
新幹線はその後、若狭地方の小浜市を経由したあと京都に向かう計画になっています。

その小浜市にやってきました。中心部の道路にこんな看板があります。
「鯖街道の起点」

その足元にもここが「鯖街道」の起点だと示す道標。京都はあちらと矢印が示されています。

「まっぷる」HPより。

「鯖街道」とは鯖の捕獲地である小浜から京に向かう道の総称です。奈良時代から御食(みけつ)国と呼ばれ朝廷に海産物などを貢いでいた若狭国。関西に続く道は古くから開けていたました。鯖だけでなくグジやアナゴなどの魚介類なども輸送していましたが、主要な産物が鯖であったことから小浜から京を結ぶ道のことを誰彼となく鯖街道と呼ぶようになりました。鯖街道の中でもっとも多く使われたのが「若狭街道」と呼ばれるルート。熊川宿を経て保坂(ほうさか)から南に下って京都大原、出町を終点とするルートです。L字に曲がり一見遠回りですが、断層のずれによりできた谷筋を通り大量運送に向いていたためメインルートとなりました。今回はこのルートをたどって小浜と熊川宿を訪ねました。

鯖街道の起点・小浜

鯖街道の起点にあるのが「小浜市鯖街道ミュージアム」。小さな施設ですが鯖街道に関する歴史が学べます。

建物の前には主な宿場町の名を刻んだ街灯が並びます。鵜の瀬宿は小浜まで三里(12キロ)、出町まで十五里(60キロ)の地に在る宿場でした。小浜から京まで十八里(72キロ)です。

小浜の人たちは「京は遠ても十八里」と言いながら都に向かって塩で〆た鯖を担いでいきました。途中の宿場でリレーをしつつ、京まで一日かけてサバなどの海産物を運びました。塩引きしたあと一日かけて運んだ鯖は塩がいい塩梅でしみこんでいて高値で取引されたといいます。十八里という距離は遠いようで近く、京からは言葉や文化、風習が小浜に流れ込んできました。若狭は北陸地方の中でも特に関西の影響が強い地域なのです。

若狭街道の一大宿場町・熊川宿へ

JR小浜駅からJR湖西線の近江今津行のバスに乗って滋賀県との県境に向かいます。山中に現れた集落が熊川宿。鯖街道の一大宿場町です。山の中にある寒村かと思ってきたのですが若狭街道は若狭から関西に抜けるメインルートになっていて意外に車どおりが多いです。

道の駅「鯖街道熊川宿」に隣接する「鯖街道ミュージアム」では鯖街道の歴史をマンガや動画でわかりやすく説明してくれています。これから熊川宿を歩こうという人の入門ガイドに最適です。

国道から一本奥に入れば時代劇のセットのような昔ながらの宿場町の光景が広がります。1.2キロの道の両側に昔ながらの建物が並びます。熊川宿はかつては寒村でしたが小浜城主浅井長政が宿場町として整備してきました。宿場制度が廃止されて以降住民は減りましたが歴史的な建築物が壊されずに残されたことでその歴史的価値が認められ、平成8年に重要伝統的建造物群保存地区に指定れています。

江戸時代、ここは若狭と近江の国境であり番所が置かれていました。鯖を潤上人も検問を受けていたのでしょうかね。毎回と言うことになると大変だと思うのですが手形でもあったのでしょうか。

かつて牛馬がのどを潤した水路「前川」。熊川宿のシンボルでもあり洗濯場としても活用されていたといいます。

かつては役場として機能していた「宿場館」。今は鯖街道や熊川宿の歴史について学ぶ資料館になっています。建てたのは村長伊藤(旧姓逸見)竹之助翁。後の伊藤忠商事二代目社長です。伝統的な日本家屋が多い中、西洋風の門構えに板張りの壁の建物が異彩を放ちます。

人馬継立問屋として栄えた荻野家住宅。

熊川宿は宿場町ですが、人馬継立(じんばつぎたて)と呼ばれる運び屋の中継地点としても発展を遂げました。倉見屋荻野家は文化年間(1810年ごろ)に建てられた熊川宿最古の建物で往時の繁栄をしのぶことができる建物です。明治期に宿場が廃止されたあとは初期の郵便局として機能していたそうです。

こちらの荷継問屋「菱屋」はベンガラ色の建具が特徴的。

熊川宿は街道に沿って1.2キロあり、かつて鯖街道の人の往来で繁栄した歴史がうかがえる宿場町でした。今回はここからバスで近江今津駅に出ました。今津からも湖を船で渡る鯖街道があったのですが、陸路の若狭街道はこの先京に向かって右に折れ南下していきます。ここから先、滋賀県区間には鯖街道中にある戦国所縁の地、朽木があります。こちらについては次の機会にして鯖街道の歴史の続きを訪ねてみたいと思います。





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