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腹を見せ天に心を許す蝉

ハラヲミセ・ソラニ・ココロヲ・ユルスセミ

数年前、道端で仰向けになっている蝉を見て、「天からのお迎えを待っているのね」と思って作った句です。ところが、これが全くの誤解であることがわかりました。

土曜の朝のことです。玄関の前にそういう蝉がいて「なにもここでご臨終にならなくても」と言いながらそのままにしておきました。月曜になれば、マンションの掃除の人が片付けてくれると思いつつ。

そして日曜の夕方、出かける用事があったので、蝉を踏まないようにドアの鍵を閉めていると、目線の下で何かが動いたような。こわごわ見てみると、蝉の足がかすかに動き、そしてすぐにまた固まりました。今の目の錯覚?

そして、ひらめいたんです。蝉は往生際がいいわけではなくて、ただ不格好だから起き上がれないだけなのではないかと。最近自分が太ってきたからわかるんです。デブが姿勢を変えるのはとても億劫。私でさえそうなのに、よく見れば蝉は胴回りの直径にも満たない手足。これで羽が下になる姿勢でひっくり返っちゃったらもう自力では起き上がれません。だから、別に死を覚悟しているわけではなくて、むしろ「生きたい」と願いながら空を睨んでいるのではないかと。

私は台所に急ぎました。そして割り箸をつかんで現場に戻り、恐る恐るその割り箸を蝉に近づけてみたんです。するとどうでしょう。まるで赤ん坊が母親の手をギュッと握りしめるように、割り箸に手足を絡めてきたではありませんか。

割り箸を通して蝉の命が伝わってきてかなり怖い。でもETみたいで感動的。勇気を振り絞って割り箸を持つ手をひねり、蝉の向きを変えてやると、蝉はジシ・゙ジジ・ジィ~と飛んでいきました。「助かったぁ、ありがとう!」と言わんばかりに。

命短し、恋せよ蝉。蝉を見送りながら、しばらくの間、いいことをした余韻にひたっていました。


そうそう、ホトトギス新歳時記によれば、「蝉」は7月の季語。もう8月ですが、今年は季節が遅かったのでお許しあれ。