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『ハウス・オブ・グッチ』と、欲望はどこにあるのか

下世話さと奥深さ

リドリー・スコット監督の最新作は、イタリアの高級ブランドであるグッチをテーマにした実話物。最終的には血なまぐさい殺人事件にまで発展してしまった、1990年代のグッチ家の騒動をドラマ化しています。映画は「血族同士の醜い争いを満喫したい」という観客の下世話な興味をしっかり満たしつつ、人生の諸行無常を感じさせるエンディングも味わい深いものでした。いまもなお存在する人気ブランドを題材にして、このような映画を撮れるものかという点にも驚きました。グッチに叱られないのでしょうか。

マウリツィオ・グッチ(アダム・ドライバー)は、グッチ創業者の孫にあたる男性。学校に通いながら勉強し、将来は弁護士を目指していました。ある日パーティーでマウリツィオと知り合ったパトリツィア・レッジャーニ(レディ・ガガ)は、彼の姓が「グッチ」だと知った瞬間、この一大チャンスを逃すものかと目が輝きます。彼の仕事場や立ち寄る書店を尾行でつきとめると、偶然を装って近づき積極アプローチ。優柔不断で押しに弱い青年をみごと籠絡すると、結婚してグッチ家の一員となったのでした。野望に燃えるパトリツィアは、弁護士志望だった夫を説得して家業を継ぐように勧め、苦境に立たされたグッチを再生しようと奮闘し始めます。彼女は大胆な行動力で、グッチ家の勢力図を塗り替えていきました。

これは誰の欲望なのか

本作には幾重もの不幸がつらなっています。マウリツィオは弁護士としてなら成功していたでしょうし、充実した人生を送れたはずでした。弁護士になるための勉強をしていたのも、彼自身、高級ブランドの経営には適性がないと感じていたためではないかと予想します。彼はごく普通に働いて、愛する人と一緒に暮らすシンプルな生き方に向いていました。しかし、彼にはどうにも主体性が欠けていて、パトリツィアとの結婚によって人生の方向性を変えられてしまいます。ほんらい野望など抱くタイプではなかった彼が、妻にけしかけられる形で、柄にもない野望を追い求めるようになるのです。この妻の猪突猛進ぶりは映画として実におもしろく、パトリツィアが出てくるだけでストーリーは刺激的に展開していきます。まるで女性版トニー・モンタナといった元気のよさがありました。

弁護士だったら幸せになれたのに

先ほど「主体性が欠けていて」と書きましたが、これも別に悪いことではなく、世の中の人はたいてい主体性などないのです。私にもありません。主体性がなくても幸福に生きていくことはできます。マウリツィオの不幸は、パトリツィアに押しつけられた欲望を、あたかも昔から自分が抱いていた欲望であったかのように錯覚してしまったことだと思うのです。マウリツィオは権力争いに向いていませんが、そもそも「権力争いに向いている人」などごくわずかです。一方パトリツィアには野望があり、人を操る術に長けていましたが、人を操って野望を達成しても幸福に結びつかず、「まだ足りない」という不満ばかりがつのってしまう不幸があるように思います。何をどうすれば野望が達成されるのか、イメージが抽象的で、彼女自身あまりよくわかっていない。彼女はただ、権力争いを勝ち抜きたい、力を得たいとそればかりが先行してしまっているのです。

たとえばマウリツィオは本当にランボルギーニが欲しかったのか、個人的には疑問です。彼は何か義務感のようなものにとらわれて、欲しくもない高級車を買ったのではないか。本当に主体性があれば、ランボルギーニは不要なのではないかという気がします。自分が何をしたいのか、自分が何に向いているのかを見きわめるのは難しいし、自分の適性を知るのも本当に困難です。デザインの才能がないと周囲に叱責されながらも、最後まで自分のブランドを作りたがったパオロ・グッチ(ジャレッド・レト)の登場する場面は、見ていると身につまされてしまい、途中からはスクリーンを正視できませんでした。そうしてグッチ家から親族がひとりずつ追放され、最終的にはマウリツィオ自身も例外ではなかった、という展開にも悲しいものがあります。マウリツィオが裕福でもない、立派な家業を営むわけでもない、ごく平凡な一族に生まれていれば、彼は弁護士として有意義な人生を送れたような気がしてならないのです。

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