見出し画像

【読み切り】カットに捧げた道

突然の事故だった。一瞬で右手の親指が使い物にならなくなった。

子供の頃から『切る』ことが好きだった。広告や新聞、DM等、手当たり次第にハサミで切る。無心で切っている間は、学校での嫌な事や、クラスメートとの確執も忘れていられた。

いつしか美容師を目指していた。『切る』が高じて『役に立つ事に生かしたい』と思うようになっていた。高校卒業後、美容短大に進み、二十歳の春、晴れて私は美容師になった。

就職した美容室の多岐に亘る業務の中で、やはり私はカットが一番好きだった。黙々と自分の世界を作り上げていく地道な作業。店の開店前と閉店後に、ひたすらマネキンでカットの練習をした。

カットデビュー後、初めて実際に、お客様の本物の髪をカットした時はさすがに緊張した。練習とは違う『お金を頂く』『仕事』としてのカット。

完成したカットをお客様が気に入ってくれた時は、無事に大役を果たせた事に、とにかく安堵した。

徐々に指名も頂くようになり、色々な髪質のお客様のカットを何度も経験し、次第にこの仕事にやりがいを感じるようになっていった。カット後に床に落ちた髪は、仕事の達成感の証だった。

業務に慣れていくにつれ、時には失客したり、他の美容師を指名するようになったお客様もいて、悔しい思いもした。けれど、変わらずに自分を指名して、長く通って下さるお客様もいる。そのようなリピーターを私は大切にした。 

不思議な事に、自分を指名してくれるお客様は、どこか自分と共通点があるような気がする。お互いによく知っている訳ではないが、何度か担当させて頂いているうちに仲良くなったような気がした。自分を選んでくれる縁に感謝しかない。

やがて後輩もでき、これからという矢先での事故だった。出勤時、私は考え事をしていて、よく前を見ていなかった。何が起きたのか、自分でもよく覚えていない。自動車と壁の間に右手を挟まれた。気が付いた時、私の右手の親指は、動かなくなっていた。

この指はもう治らないと告げられ、目の前が真っ暗になった。『これからどうしよう…』この手では、カットどころか、日常生活での何気ない動作さえもおぼつかない。

私は暗闇をさ迷った。仕事を休み、ひたすら悩み続けた。美容師から他の職についたり、結婚した人たちの話を読んだりした。けれど自分には、どうもしっくり来なかった。美容師になる事だけを夢見てきたのに…それ以外の道は考えられなかった。

そんな時に、偶然TVで、片腕のピアニストを知った。左手だけでピアノを弾くピアニスト。あまりに見事な演奏に引き込まれた。早速彼女のCDを買い、今まで縁遠く、まともに聴いた事もなかったピアノの演奏を何度も聴いた。

『自分には美容師しかない!』これが、数ヶ月の後に出した結論だった。暗闇に射した一条の光を、私はしっかりと辿って行った。

ハサミを左手で持った。マネキンの髪をカットしていく。ゆっくり確実に丁寧に。今まで右手で出来た事は、左手でも出来る。そう信じるしかなかった。切り続けていると、純粋に『切る』事が好きだった子供の頃に還っていく。気持ちが静まっていった。

例のピアニストの演奏を、店内のBGMでも流させて貰った。自分を立ち直らせてくれたピアニストの演奏を、多くの人に聴いて欲しかった。そして何より、彼女の演奏は、業務中も自分を支えてくれた。

業務の合間を縫って、ひたすら左手でカットの練習をした。とにかく練習あるのみだった。数をこなし慣れる。無心にカットに打ち込んだ。

さらに数ヶ月が経ち、右手と同じくらい、左手でも、徐々に納得のいくカットが出来るようになっていた。気がつけば、カットの感覚が左手に宿っていた。その感覚を、私はしっかりと掴んだ。

ある日、店長が言った。「明日からカットお願いね。」

初めてお客様のカットを担当した時の緊張感が甦る。私は二度、初めてを経験するのか…

「いらっしゃいませ。」来店されたお客様に挨拶した。「あら! 復帰なさったの?」以前、私を指名して下さっていたお客様だ。事故の事もご存知だ。「お陰様で。今は左手でカットしています。」受付の際にお答えすると「また、あなたにカットをお願いして宜しいかしら?」と依頼された。「かしこまりました。」私は丁寧にお辞儀をした。

緊張の『二度目の初めて』。左手での、業務としての初カット。ゆっくり確実に丁寧に。出来上がったカットを見て、お客様は仰った。「前と同じ仕上がりね。またお願いするわ。」美容師をやめなくて良かったと心から思った。

気がつけば、左手でカットするのが当たり前になっていた。いつの間にか、周りの人たちも日常の事として受け入れていた。新規のお客様で、私を指名して下さる方も少しずつ増えてきている。いつの間にか、新しい道が拓けていた。

ある日の事。

閉店間際となり、私はそろそろ店を閉めようとしていた。そこへお客様が来店された。いつも通り「いらっしゃいませ。」とお声がけした私の前に立っていたのは、紛れもない、あのピアニストの彼女だった… 

ちょうどその時、BGMで流れる彼女のピアノ演奏が、店内を優しく包んでいた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?