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「自灯明」大切な人がいなくなったら、、、

おはようございます。kohです。

突然ですが
みなさんに心の支えになる方は
いますか?
その人がいなくなったら
どうしますか?

いまから2000年以上前の
古代インドでの仏教からのお話です。

信仰ではなく
一つの例え話として読んでください。

お釈迦さまが
80歳でこの世から
入滅される時に
その時にお釈迦様に従事していた弟子である
アーナンダは慌て深めきました。

アーナンダは言います。
「お釈迦さまがいなくなられたら
私たちは何を拠り所に生きてゆけばいいのでしょう?」と

それにお釈迦様が答えたのが
タイトル言葉である
「自灯明」です。

私も最近母と電話で話すのですが
正直言って嫌です。
母の愚痴を聞くことが嫌なのではなく
母がいなくなったことを考えてしまう
自分が心にいるからです。

まさに
前述のアーナンダのような気分になってしまいます。

さて、
「自灯明」にはいろんな解釈があります。
私kohの解釈はお釈迦さまの意味するところと
合致しないかもしれません。
ですが、述べさせていただきます。

禅宗には「坐禅」という修行が
一般的に有名です。
お釈迦さまが菩提樹に座って悟りを開いたことに由来するからです。

この「坐」という字、よく見て下さい。

人と人が土の上で並んでいます。
この人と人は何を表すか知っていますか?

それは、意識している普段の自分。
もう一つは心の中の本当の自分なのだそうです。

つまり「坐禅」とは
座って禅定(ぜんじょう)に入ることで、
いつもの自分が、心の中の本当の自分と
向かい合うことが本来の意味だそうです。

その「本来の自分」こそが
タイトルの「自灯明」の「自」になります。

つまりお釈迦さまが
「自灯明」で言いたかったことは

「本来の自分に出会いなさい(明かりを灯す)
そして、その本当の自分(その明かり)を生きる拠り所にしなさい」

と言いたかったのだと私は思います。

それでも
一人や孤独、または「ぼっち」というのは
何か寂しい意味にとらえがちです。

哲学者の「実存主義」のキルケゴールやニーチェなどは
一人のことを「単独者」と読んでいました。
「単独者」とは
己の人生の意味を自分の責任にする人のことです。

ちなみに
お釈迦さまもいろんな例えを使いながら
「苦しくてもサイの角のように独り進め」という言葉も多数あるそうです。

一人になって強く生きることは
古今東西
同じく言われていることなのですね。

現在は、コロナ禍をこして
おひとり様が増加しています。
また、結婚などして家族がいらっしゃっても
孤独を感じる方が多数いらっしゃるようです。
寂しいですが、事実だそうです・・・。

そんな時
「自灯明」という言葉は
すごく、輝いて耳に響きます。
なんだか勇気を与えてくれます。

当たり前ですが
お釈迦さまでも単なる一人の人間だったことは
忘れてはいけません。

私は仲間を作ることや楽しむことを
否定する気はもうとうりません。
生きていれば、仲間は必要ですし
楽しみは必要です。
(私もnoterの端くれです)

一人でなんでもできる人はいません。

それでも、ふと隙間風のように
やってくる「寂しさ」に
この「自灯明」という言葉が
力を持って語りかけてくるような
気がします✨

なんだか意図せずに、「kohの説法」のような雰囲気になってきた感じ😅😅😅です💦

しかし、これも一つの単なる
物語として読んでください。
(お坊さんに怒られるかも!)

素人の戯言くらいに
軽く聞き流してくれれば嬉しいです。

日日是好日

今日も素敵な1日になりますように・・・

最後まで読んでくださり
ありがとうございます。

では また
おわり

blue_lace_moonさん素敵なキャンドルのお写真綺麗で穏やかな雰囲気に感じて
使用させていただきました。
私のnoteで伝えたいイメージです。
ありがとうございます。


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