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BEの幸せの考察

幸せになりたい。
誰もがそう願っています。
私もその中の一人です。

精神科医のビクトール・E・フランクルは
「幸せを追うと逆に幸せは遠ざかる」という
言葉を残しています。
それはまるで量子力学のようで
顕微鏡で観察すると粒子が動いてしまい
決してその状態を見ることができないのに似ているようです。

幸せは「身の程を知ることから」見つけるものです。(生きかた上手、日野原重明著)

我々は自分の痛みには敏感ですが
自分の幸福にはある意味鈍感であるとも言えます。

言いたいことというのは
幸せとは「状態」のことであり
それに気づくことで
「幸せ」だと思えるのが人間かもしれません。

つまりはBE(存在)の幸せです。

哲学者のハイデガーは
「存在と時間」の中で
不安の原因は「生の終わり」をあげています。
メメントモリの言葉どうり
「終わりを忘れるな!」というのです。
幸福を追っている状態ということで
ただ何気なく日々を過ごす人を
「ダスマン」(世人)とハイデガーは言いたかったと解釈できると私は思います。

こうやってnoteをを一文字一文字打つたびに
人間の時は過ぎ去っていきます。

行く川の流れは絶えずして
しかももとの水にあらず

方丈記、鴨長明

そんな流れさる生活の中で
何が本当の幸福なのでしょうか?
確かな拠り所はないのでしょうか?

デカルトは「方法序説」の中で
全てのことを疑いました。
しかし、疑っている自分自身は確かに存在するとして「我思う、故に我あり」と表現しました。

実存主義者であるキルケゴールは
「その人の本当の真実は主観的なものである」
とも言っています。

このことから鑑みても
幸せとは既にあなたの中にあると思えます。

それゆえに
「幸せ」とは、自分自身で気づくものだと
思えるのです。

でも、「幸せは自分の中にあるのに
なんで私たちは幸せに感じられないっんだ?」

と悩んだ人が
日本の禅僧「道元禅師」でした。
禅師は、悩みながら比叡山から降りてしまいます。そして人の仏性(人の幸せと訳してもいいでしょう)はただ座禅の中にあると「只管打坐」(しかんたざ)に求めました。

ただ座るだけで「幸せ」に気づくことは
今やマインドフルネスとして
心理療法にも取り上げられています。

あなたはただそこにいるだけでいい。

それがBE(存在)の幸せだと思います。

知識はその事実に気づかせてくれるだけの
参考書かもしれません。
このような知識を知らなくても
人は経験でも「存在」に気づくことができるからです。

それは、パンドラの箱の中に最後に残っていた
「幸せ」とも言えるかもしれません。


今回は「BE」(存在)の幸せを
考察してみました。

あなたはそこにいるだけでいい。
それは世界中、多くの歴史人が言っていると
おもえるのです。

良い一日になりますように。

では また
おわり

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