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ワーママについて1年以上記事を書いてきて、わがままに生きた方がいいんでは?と今思う理由

ちょうど半年ほど前に「ワーママはつらいよ」と記事に書いて、note界に名を轟かせる「しゃかせん」こと社会人先生に取り上げていただいた。

こちらの記事の翌日「つらい…じゃ、どうしたらよいか」に当たる部分を記事にした。

今見ると、いやぁ、ワーママ、つらそうだなぁ、と思う。

別に「ワーママ」の部分はなんでもよくて、「友達ができなくて学校が辛い」でも「上手く振る舞えなくて会社が辛い」でも「妻に口うるさく言われて家にいるのが辛い」でもなんでも、当てはまりそうなので生きるのが辛いときや、そんな人に寄り添うとき、この記事の内容を自分で参考にしようと思う。

さて。noteを始めてからいろいろあった。

小1の壁、耳の小さな子どもを取り巻く出来事、夫婦喧嘩や、私の転職、マンション価格が高騰、インフレや円安や少子化など…。

引用したふたつの記事は、どうしてもつらいときのお守りにしておくとして、ワーママとして1年以上記事を書いて来て今、思うことがある。現時点での最先端の思いを書いておこうと思う。

「わがままに生きたほうがいいんじゃないか?」

子どもの「ママのせい」を受け止める準備を始める

子どもは、産まれた時から試練にさらされている。

なぜ、自分はルックスがよくないのか。
なぜ、自分は頭が良くないのか。
なぜ、うちはお金持ちじゃないのか。

知恵がついてくると言うだろう。
「ママのせいだ」
(あるいは、パパのせい)

ママと一緒にいる時間が長かったり、弱音をママに吐きがちな子の場合、ママにあたることが増えると思う。

昔は産んでもらって育ててもらって親に感謝しろ!と言う大人もいただろう。けど、もう賢い子どもたちは分かっている。子どもは勝手に産まれてくるのではなく親が産み落としていることを。そして、この厳しい世の中に子を産み落とす責任の重さも。

「ママのせい」と言われたときに、ごめんねと言わなくて済む自分でいるにはどうしたらいいのか。

「私はあなたに会えて幸せ。産まれて来てくれてありがとう」と堂々と私のわがままを優先しようと思う。

夫婦のパートナーシップという難題と生きていく

夫婦を長く続ける秘訣を年配の夫婦に聞くと、よくある答えが「耐える」だと聞く。

片目をつぶるとか、両目をつぶるとかも聞くし、「なるべく一緒にいない」と言うのも聞く。

若い人は「ええ〜?じゃなんのために結婚したの?」とずっこけてしまうだろうけど、実際、私もラブラブでずっと一緒にいたい夫婦の話は雑誌やテレビでしか聞かない。(海外暮らしが長い友人は、小さい頃おばあちゃんに預けられて親はデートに出かけていたと言ったいた。日本ではなかなか聞かない)

今の世の中、夫婦別々でも生きていける要素はある。例えば、女性の収入だけでも生活できたり、かつて女性にしかできなかった家事はお金で解決できるものになったりしていっている。

しかし、一本でなくふたつの柱の方がリスクが分散できるし、財布の規模も大きくなる可能性が高いし、子どもから見て多くの大人に触れた方が世界が広がる。物理的に、子育てには人手が必要。

だから、夫婦が一緒にいる意味は依然としてあるのだろうけど、いわば家庭の共同経営者が長年息を合わせてやっていくのは、かなりの努力が必要だと思う。なにせ、配偶者は親子と違って完全な他人。

「耐える」とか「適度な距離を取る」という昔からある戦略は時代を経てもある程度使えるものだと思う。ただ、先に述べたように、命が尽きるまで耐えないと夫婦がお互い生きていけない世の中でもない。

だから私はわがままに生きていこうと思う。言いたいことも言わせてもらうし、お願いしたいことはお願いするし、文句を言われても改めるかどうかは判断させてもらうし、失望されようとしていたら弁明はさせてもらう…と言った具合。

いつか捨てられるときが来たとして「出来る限り相手に合わせて来たのに」と思うより、「やれることは全てした。それでもだめなら仕方ないか」と思った方が良いと思って。

相手の希望に常に合わせたつもりでいても、そもそも出来ることに限度があるし、人の欲は進化する。相手には常に不満を抱えられながら生きているので尽くし切ることは不可能と悟る、残念だけど(私の能力や器では、という意味)。

子どもが親を離れていくのが育児の目標

NHKのドキュメント72時間という番組がある。かなり昔から放映されていて独身時代はずっと観てたし、結婚してからも観てたけど子育て期に入り全く観なくなっていた。

最近たまたまテレビが勝手にしてくれていた録画を流してみたら最高で、やっぱりこの番組、好きだなと思う。

とある地方の空港で取材をしていて、子どもを遠くへ送り出す親が映っていた。

明るい未来に胸を膨らませて飛び立つ子。
親はカメラを向けられ、心配するのは親だけで子どもは前だけ見て行ってしまう、というくだりが私の胸に剣のように突き刺さった。

いつか羽ばたく時たくさんの思い出を懐かしむのは親だけで、子どもの頭の中には真っ白なキャンパスに何を描こうか?しかない。

それでいいし、それがいいじゃないか。
むしろ、そうなってほしくて、ならなかったらと思うとむしろ心配。

子に「金くれ米くれ」しか言わなくなったら成功ではないか?金と米を送れるようにだけはしておこう。(それがこれからの時代は簡単ではなかったりするかも?)

まとめ

いろんな人がいろんなことを言ってくるので辛くなってしまうこともあるけれど…

人の人生をどうサポートするか?の傍で自分の人生をどう生きるかを考えることをやめないようにしないと、誰もどうもしてくれない!

自分の幸せのともしびが人からの風あたりで危うくなるくらいなら、そのともしびは自分で守る必要がある。

そしたら、少しはわがままに生きておいた方がよいのかも?

…と思ったので記しておく。

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