成長の速度
「人は叱られるべき時に、きちんと叱られるべきである」
これは年度末になりひしひしと感じている。
昨年度三年生を送り出し、今年度は一年生の担任として始まった。
今年度の一年生は、入学前から噂になる程の荒れた生徒達だった。
各小学校では、学級崩壊となり、教員が休職となったままのところもあった。
さまざまな子達がいたが、一様に言えることは、然るべき時に、叱られてないということだ。
悪いことが悪いと認識ができていない。
これはクラスを安全で安心な場所にしていく上で一番と言って良いほどの弱点である。
クラスの中で正義が成り立たないのだ。
さまざまなことが起こったとき、その場その時に指導するのが原則である。
しかし、今の一年生は全体での指導はまず入らない。
なぜなら自分ごとだと捉えられないからだ。
具体的に生徒の名前を出して学級全体で指導するが、その時の様子は「早くこの時間が過ぎてくれ」と言わんばかりに黙っている。
やはり翌日には同じようなことをやらかしている。個別に呼び出して指導するが、やはり何日か経つと同じことをする。
なぜ悪いのか、何がいけないのか、一つ一つ詰めていくが、これまで怒られてきたこととリンクしない。起きた事象一つ一つを潰していくような、モグラ叩きのような感覚である。
あまりにも幼稚さが目立つ。
つまりダメなことをダメだとこれまでに指摘されてきていない、もしくは本人の中に届いていない。
なぜ悪いなのか、何がいけないのかこれまでの経験から照らし合わせることができれば、次はやらないでおこうと判断できる。
しかし、これまでの指導がないから、幼稚なまま身体だけが大きくなっている。
精神的な成長具合は小学校低学年のままである。
指導されたことを受け止める精神的な成長ができていない。
人間はその精神的な発達度合いにおいて、その時の指導の受け止め方が違ってくる
精神的に幼い子と発達している子では、受け止め方に大きく差が出る。
その差は、指導を自分ごととして受け止められるかどうかである。
自分にも関係がある、自分のことだと受け取れる人は成長の機会となるが、自分には関係ないと耳を塞いだ瞬間に、そこから先の言葉はもう届かない。
それが積み重なり、何年も経過するうちに、人間としての大きな差となっていく。
そう考えると、やはり然るべき時に、きちんと叱ることが大切である。
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