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【小説】コーベ・イン・ブルー No.6

  11

 六甲おろしの吹き荒ぶ港に、春先の生温い浜風がまじり、潮の香りを夕暮れの岸壁に運ぶ。
 季節の移り変わりが、人の心から警戒心をゆるめるのか、冒険好きな女の子らは、知り合った外国人の船に遊びにくる。
 二人以上のグループだと安全だ思いこみ、船内を案内してもらい、その国の料理までごちそうしてくれるので、たのしいひとときを過ごせると勘違いする。その場合もあるが、異なる場合もある。

 キヤップを目深にかぶった服部海人は税関に立ち寄り、出航手続きが完了したむねを報告し、新港第四埠頭に停泊する貨物船のタラップを駈けあがる。
 赤と緑の回転灯がランチ(連絡用の小艇)を照らす。
 タグボートに曳かれて瀬戸内海を往来する艀が二隻。
 対岸の三井桟橋にも街灯がともる。
 夕陽を照り返すコンテナは、べんがら色に光る高層ビルのようだ。

 クォーターデッキ(後部の甲板)で、座りこんで泣いている半裸の女の子が三人。船舶電話の前にいるワッチマン(警備員)は、苦りきった顔つきで彼女らを遠目に見ている。

 海人が口をひらく前に、「わしの仕事は、船員に国際電話をかけさせんように見張ることや。ちょっと目を離したら、あいつらは家族に電話をしよる。あっという間に万単位の請求書がくる。兄ちゃんにもわかってるやろ」と、ワッチマンは自分に責任がないと訴える。「船員らといっしょにタクシーで乗りこんできたんや。ケラケラわろうてるさかい、こっそり注意したんやけどな、何人もの乗組員にヤられてしもて……。ここは日本であって日本やないから、何をされても船が出てったらしまいやのになぁ」

 彼女たちの周りには、身につけていたものが散らばっている。男たちが、女の子らを甲板に放り出すときにといっしょに投げ捨てたのだろう。
 中の一人は全裸に近い。
 痩せた胸のほぼ真ん中に、直径五センチくらいの赤黒いあざができている。残る二人のスリムパンツの尻には血痕がある。
「海保か、警察を呼ぶか」と、ワッチマンが海人にきく。
「やめてッ!」と全裸の女の子が叫んだ。「何もなかったンやから。ただお酒に酔っただけやねんから……」

 税関員は望遠鏡で船舶への人の出入りを常に監視しているが、風俗営業とみなされれば、船員が検挙されることはない。
 大型ヨットや客船の場合、スワッピングやSMショーが船内で催される。そこに児童がからむことさえある。まさかと思うようなことが、ここでは日常的に起きている。海保も警察も踏みこめないのか、踏みこむ気がないのか。

 海人は小学生になったばかりの頃、英美子の客だった男にヨットに乗せてやると言われてついていった。そこで受けた辱めを、海人はけっして忘れない。
 癒えることのない傷を心と体に負わなければ、刃物で小汚い男二人を刺したりしなかった。
 半裸の女の子も、他の二人もこの先、まともな道を歩むことがむずかしくなるだろう。

 積み荷の終わった甲板に、暮れなずむ濃紺の大空が落ちかかってくる。
 海人は腕組みをし、一生ぶんのため息をつく。
 浅黒い肌に、濃い眉の男が、ゆっくりと海人に近づいてくる。
 彫りが深く、けわしい顔つきの男は、彼女らを一瞥すらしない。
 彼らの宗教上の理由から、もはや、穢れた存在なのだろう。
 男は無言で黒いビニール袋を差し出す。
 海人は黙って受け取り、女の子たちに声をかける。「ここにいてもしょうがない。いっしょに下りよう」

 女の子たちが身繕いするあいだに、半裸の子のバッグに黒いビニール袋を忍びこませる。いつものなら、季節にそぐわないダッフルコートの下に着こんだパーカーの背中に縫いつけた布袋に預かり物を隠すのだけれど。

 近頃、気のせいか、税関員の監視の目が厳しくなったと感じる。
 女の子三人を車に同乗させる。
 突堤を出たあたりで、望遠鏡を手にした税関職員が近づいてくる。
 船員を見送りにきた女の子たちが帰りの足代がなくて困っていたのでポートライナーまで送っていると説明する。
 税関員も、何があったのか、勘づいているが、敢えて問いたださない。おかげで、女の子のバッグの中身を検査されずに通過できる。

 ポートライナーのポートターミナル駅まで、彼女らを送る。
 海人が切り出す前に、警察を呼ぶなと言った女の子が、船員から預かったビニール袋を差し出した。
「これ、あたしらを撮ったもンやねん。みんなで見てたのしんでやがるからムカついて、すり替えてやってん。お兄さんにあげるわ」
 海人は呆然とする。
 いまさらそんなこと言われても、船は岸壁を離れ港外へ向かっている。
 八田組長にどう説明すればいいのか――。

 口封じのためなのか、彼女たちは現場を撮影されたらしい。
 気丈な彼女は彼らが油断したすきに、ビデオデッキにあったビデオを抜き取り、テーブルにあったビニール袋の中のものと入れ替えたという。
 親切がアダとなる。
 ここまで運に見離されるとは――。
 奈落の底に落ちていく気分になる。

 一難去って、また一難。とんでもない難敵が、海人の乗るダットサンを待ちうけていた。

 ショッキングピンクのシャネルスーツで、しっかりキメたつもりでいるエラ女の四角い顔を見たとたん、胸クソが悪くなる。
 二度と、目にすることはないとタカをくくっていた。
 彼女は当たり前のように、車の前に立ちはだかる。
 こめかみが、疼きだす。
 轢き殺してもよかったが、これ以上の厄介事はさすがに避けなくてはならない。
 警察にいつ、パクられも文句を言えない状況が続いている。

 ひと月前――。

 雨の中、海人は雨にけむる夜道を三ノ宮から東にむかって駈けた。
 藤原康介が八田組の山野辺と揉め事をおこしたせいだ。
 大人は手に余ることにかかわらない。さっきのワッチマンのように見過ごす。海人もそうするつもりだった。今度ばかりは胸突き八丁。どんづまりだった。

 コンコンコン……。

 海人の運転席の窓をエラ女はなんども叩く。
 魔女がノックしているようだ。
 ドアロックを外す。
 エラ女は助手席に乗りこんでくる。
「焼けぼっくりに火がつくなんてどう?」
 契約を切られないために、この女と薄汚いラブホにしけこんでいたと思うだに腹ワタが煮えくりかえる。金だってろくすっぽもらっていない。
「あなたに貸していたお金なんだけど、二十万くらいになっているかしらン」
 運転中の海人は手元が狂い、一般道の手前にある信号を無視する。
「そうそう、最後に五万円、貸してあげたから合計で二十五万ね。利息まで返せとは言わないわ」
 エラ女の目的が金でないことは、海人の横顔を見ながら、なんどもタイトスカートの裾を引っ張る仕草でわかる。

 エラ女には、その気が男にあろうとなかろうと、おかまいなし。
 強引で無神経なところは、ヤクザとかわりない。

 ロングバージョンの悪夢を見ているようだ。
 悪夢なら覚めるが、現実は容赦ない。

 雨に濡れながら、山野辺の属する八田組の事務所に出向いた海人は表通りからひと筋、脇道へ入る前に眩暈がした。
 こぶしで、額を叩いた。
 壁面に化粧煉瓦を張りつけた細長い建物のドアを押すと、二重のプラスチック製の遮蔽板があり、さらに奥に鋼板のドアがある。
 ノックをする前に、玄関の様子を中から見られるようになっているのだろう、金壷眼の石垣がドアを外にむかってひらき、海人を招きいれた。
 マホガニーのデスクと相性のいい袖つき椅子に身をゆだねている八田組長がまず目に入った。
 舎弟頭の山野辺をはじめ、数人の男たちが組長の背後に居並んでいた。
「このたびは、ご迷惑をおかけしました」
 海人が二つ下りになってあいさつをすると、八田組長は、葉巻をくわえながら顎をしゃくった。 
 山野辺はあわててダンヒルで火をつける。
「えらいことしてくれよったなぁ。この始末はちょっとやそっとのことでは、すまんぞ。ウチとアンタら親子だけのことやったらええ。相手サンのあることやよってなぁ。つぎの義理場(組織の定例会)で、わしが〝返し〟を言いだしたら、〝カチコミ〟になるやもしれんデ」
「ご立腹でしたワ」と、山野辺は海人をにらむ。「れいの社長、手がけてる物件の数がハンパないですよってーーやっとのことで、例の土地を買わせる段取りをつけてましたんや」
 海人は頭を下げたままでいた。
 駅につづく商店街に行くまでの道に、兵庫県全域を仕切る大吾組傘下の下部組織となる事務所が数ヶ所ある。総本山の大吾組直参の間では、兄舎弟、親子の盃を交わして上下関係をはっきりさせているが、下部組織は表向きは大吾組の系列を名乗っているが序列はなきにひとしい。
「松木のボンに、いっぺん、顔、出してもらおか。なんとゆーたかて、松木組は直参の中でもピカイチの出世頭や。わしらのような前持ちとは、会いとうないやろけどな」
 少年院や刑務所帰りの行き場のない者たちを集めて寝起きする場所を与えている者たちが、組をつくり、大吾組幹部の了承を得て傘下となり、それぞれ一家を構えている。
「知っての通り、わしらは直参やない。枝の枝の葉っぱや」
 パチンコ屋等の遊興施設を経営している者、風俗業に手を染めている者、闇カジノに手を染める者、賭け屋など、末端の組織になるほど犯罪に手を染め、収入源も多種多様となる。
 犯罪とは無縁のテキヤの元締めもいる。
「ここらは素人サンもぎょうさん住んでるよってな、ドンパチやるわけにもいかん」
 地域一帯に組事務所が軒をならべているので、縄張りをめぐっての多少のゴタゴタはあっても、他府県で見られるような地域住民をまきこむ抗争事件はめったにない。
「そこでや――」と、八田組長はおもむろに本題に入った。 
                 
 阪神高速の橋桁を通りぬけ、国道に入る。
 道路は混んでいる。
 クラクションを鳴らす。
「機嫌がわるいのね」
 大根足の女が、膝上のスカートをはく気持ちが、海人にはわからない。わざわざアンクレットまでつけている。肩パット入りのスーツの派手な色といい、肉厚の肌が透けて見える、花柄のストッキングといい、趣味の悪さを拡大し拡張するような装いに辟易する。
 ハンドルを切り、左折し、オレンジ色の街灯のともる海岸通りを走る。
「だんまりはないでしょ」 
 エラ女は海人のひざに手をおく。
「先にゴハン行く?」
 船会社のオフィスの入っているビルが見える。
「ここでいいスか?」
 海人の問いに、エラ女は居住まいをただし、
「停めてちょうだい」
 話があるのと言った。
 他社もふくめて、船会社の連中で大方の席を占めるコーヒーショップに立ち寄るつもりなのか……。
 海人はエラ女の心中を計りかねる。
 エラ女は前をむいたまま言った。「バレてないと思ってるでしょ?」
 路肩に車を寄せる。
 窓をおろし、両切りのキャメルを吸う。
「そのタバコ、臭いがきついのよ」と、エラ女。
 米国船を担当すると、太っ腹のボースンはメシを食っていけ、煙草をやろうと気前がいい。コーヒーも飲み放題。ただし、薄味のアメリカンコーヒーは固い肉と同様にまずい。皿の半分ほどのサイズのぶ厚い肉の横に、湯で溶いたマッシュポテトとトウモロコシ一本。剣呑なヨーロッパ人と異なり、アメリカ人は気取りのない船員がほとんどだ。シンプルな食い物のせいかと思う一方で、自分に流れている血の四分の一が彼らに親しみを感じるせいかもと思う。

 とどのつまり、おれは何者でもない。
 だから、付け入られるのか――。

 八田組のカシラは三十過ぎにしか見えなかった。
 数年後、海人は自身が八田のように男たちを束ねているとは到底思えない。八田には自分の手足となる子分らを養う気概がある。
 金の指輪をした手をさっとのばし、デスクに片肘をつき、派手なカフスボタンを見せびらかす愛敬もある。
「ウワサやけど、大学出のコウボンは近いうちに総本部組長の秘書をつとめるらしいデ。松木組の跡継ぎになる地ならしやな。ほんでいよいよ、松木のおやっさんは、大吾組の総括委員長になるそうや。何事もなければの話やけどな」
 八田が、今回の後始末の条件を口にするまで、けっして口をひらくまいと海人は決めていたが――、
「しゃあけどなぁ、枝の葉っぱごときと跡継ぎが揉めてはなぁ。元は一本の木ぃやよってな」
 きつい臭いの整髪料を使っているのだろう。海人の立っているところまで臭う。固めたオールバックの髪型の下の目つきの鋭さは、山野辺とは比較にならない。おろらく八田のほうが年下だが、統率力において、山野辺は風下に立つ器量しかないのだ。
 白いダブルのスーツの前をはだけ、幅頃のズボンの両足をデスクにのせると、
「やられっぱなしでは、わしの名がすたる。そっちが何様でも、ケジメはつけてもらわんと、ウチの若いモンも黙ってないデ」
「西も東もわからん子供です。こんどのことは、おれを助けるつもりで、バカなマネしたんです」
「ほんなら、あんたに、指でも詰めてもらおか」
「――わかりました」と、海人は覚悟をきめる。
「冗談や」と、八田はクワックワッと笑い、「そんなことしてもろても一銭の得にもならん。そこでや、頼みがあるんや。こんど新港に入る***からくる貨物船からもろてきて欲しいモンがあるんや」
 船と港にかかわる仕事を選ぶべきではなかった。
「あくまで、これは、アンタとワシの掛け合い(交渉)や」
 山野辺と石垣に怪我人の後始末を頼んだときから、いずれ、この日のくることはわかっていた。遅すぎたくらいだ。

 夜より暗い海の底に沈むしかない。
 生まれたときからの、定められた運命は変えられないのか――。

 エラ女は物思いにふける海人の肩を押す。
「なんの話っスか?」
 彼女の話に耳を貸していなかった。
「藤原康介は、親にねだって、わたしを取りのぞいた気でいるけれど、そうは問屋がおろさないわ」
 康介のせいで、デブの魔女までが、海人に食らいつく。
「無関心なフリして、女の気をひくのが手なんでしょ?」
「そんな気、みじんもありませんワ」
「彼が、ゲイだってことは、配置転換でやってきた日からわかってわ。キミをねらってたこともね」
「だから嫌ったンですか」
「ああ見えて、なかなかのヤリ手よね。わたしより効率よく仕事をコナしてるわ。ほんとは、頭がキレるのよね」
「用件はなんなんスか」
「キミさ、利用されてるのよ」
 エラ女はもう一度、海人の太ももに手をのばし、やにわに爪を立てる。ふり払おうとしたせつな、
「彼、サエナイ女警官と、週1で寝てるわよ。キミもわたしもすっかり騙されてたってわけ。さいしょっから企んでたのよ」

 煙草を窓から投げ捨て、エンジンをかける。

「おれとなんの関わりがあるんです?」
「キミ、彼のせいで、運び屋、やらされてるでしょ?」
 車をバックさせ、東向きの車線に乗り変える。貿易センタービルを横目にみて走り、生田川ジャンクションの手前で車を停める。
 このあたりにくると、雑居ビルはあるが、表通りから飲食店などの店舗はほぼ姿を消す。人通りも少ない。

 有料駐車場に車を入れる。

 エラ女は、周囲に人の気配がないと知ると、息を弾ませる。海人の顔を両手でわしづかみにし、かぶりつくように口の中に舌をねじ入れ、舌をからませる。唾液を吸いあげる――。
 海人のカーキ色のパンツのファスナーに触れようとする。
「……キミじゃなきゃ、ダメなのよ」
 ピルを飲み、避妊の必要のない女はどん欲になる。
「先払いにしてもらえますか」
「……いいわ……」
「三万、いますぐ払ってください」
「なによ、なによ、なによ、あんただって、いい思いしてるじゃないの」

 エラ女は知らないのだ。
 長い間、中年女の相手をするうちに、脳の中枢神経を分離するすべを自然におぼえるのだと。
 娼婦と同じように、最小の労力で最大の結果を得なくてはならない。
 女が満足するまで機能を維持し、満足感を得たとみてとれると、素早くからだを離す。肉体労働以外のなにものでもない。
「払えばいいのね、わかったわ」
 エラ女は、使いふるしたグッチのバッグから薄っぺらい長財布を取り出し、万札を三枚、海人にわたす。この金がいまのエラ女にとって大金だと知っている。代理店の課長職から、船会社の庶務課に左遷された彼女はいまでは平社員のはずだ。
 海人は、新札の壱万円札をポケットにねじこみながら、
「後部座席でいいですか?」
「他の女と同じにしないでよっ」
 海人はダッフルコートを脱ぎ、キャップといっしょに後部座席に投げ入れる。他のオバハンとヤルときは、高級ホテルだと、この女は知らないらしい。
「憎らしいけど、好きよ」
 エラ女は駐車場のトイレに誘う。
 ホテル代がないようだ。
 この金はどこから?
 エラ女は、少しでもマシなトイレを探して右往左往する。
 オバハンのいじましさに閉口する。
 エラ女は海人を便器のふたに座らせると、100メートルを全力疾走する勢いで腰をふり、押しつける。

 このひと月、薄氷を踏む思いで、海人はヤクを運んだ。

 エラ女までかぎつけて、海人を追いつめる。

 だれが密告したのか?

 近隣の暴力団が神のごとく崇める総本家の先代組長は、薬物にはかかわるなと遺言したときく。
 直参の松木組は企業舎弟として遺言を守り、正業で重きをなしてきたが、すべての組が、マットウな仕事で生き残れるほど彼らの世界も甘くない。

 小柄な女警官と康介が寝てると、エラ女は言った。まさかと思う反面、あれほどのことをしでかしたというのに、オフィスでのよそよそしい態度だけならまだしも、ひと言の礼もなければ、どうなったのかもたずねない康介の態度に不信感がつのる。
 
 首から上は今後のとるべき対策をけんめいに考える。
 下半身は、自らに課せられたツトメをもくもくと果たす。
 当面の難題は、これじゃない。
 ヤクを紛失したと言っても、組長は信じないだろう。
 どうすればいい!
 エラ女は不自然な姿勢のせいであきたらないのか、歯噛みし、目をむく。
 思い通りに欲望を満たせない苛立ちが、メス豚の咆哮になる。
 エラ女は、海人の首筋に噛みつき、唸り、よだれをたらした。
 セックスほど人間を醜悪するものはない。
 ようやく満足したのか、エラ女はハンカチで口のまわりをぬぐい、「藤原康介に気をつけなさい」と言い残して立ち去った。

 彼女は家に帰ると、子供に宿題はすませたのかと訊ね、鼻歌まじりで夕飯の支度にかかり、建築現場で働く夫を笑顔で迎える。
 母親の英美子に美点があるとするなら、あるがままで海人に接し、表の顔も裏の顔もないことだ。

 海人はいったん家に帰り、一着しかないスーツに着替える。ペンシルストライプのネクタイをしめる。黒いビニール袋をぶらさげて八田組の事務所を訪れた。

 殴り殺されるかもしれないが、ありのままを話すしかない。

 思った通り、「われぇ、そんなバカくさい話が、このわしに、通じるとおもてケツかるんかーっ!」
 海人は思わずのけぞる。映画だったら、笑えるシーンだと思う。
 ヤクの入っているビデオケースが、レイプシーン満載のエロビデオにすり替わったと言って、信ずる者などいない。
 しかし、山野辺が揉み手をし、八田の前に進み出た。
「組長、それはそれで、けっこうな儲けになりまっせ。ダビングして、そこら中のレンタルビデオ店に貸すんですワ」
「ほんまか?」
「ヨソの組が仕切ってる店にも貸して、恩をうっとくのも、のちのちええのやないかと――もちろん、貸し賃はもらいまっさかい」
「ヨソになんかあったときは、みかじめ料がとれるゆーこっちゃな。黄金の葉っぱになれるかもしれんな」
 ヤクザ連中は、素人衆がロマンポルノにあきたらないと知っている。
「いっぺん、映してみい」

 処刑前の囚人のように、海人は直立不動の姿勢で、しゃがみこむ男たちと並んで四角いテレビ画面を見た。
 巻き戻される。
 さっき出会った女の子たちのレイプシーンからはじまると思いこんでいた。
 海人は、しょっぱなに映った女の顔を見て腰が抜けそうになった。
 思わず口を押さえたほどだ。

 参考人室で、海人を尋問した女だ。
 ロイとかかわりのあった女だ。
 もしかすると、ロイは、今夜の海人と同じことをしたのではないのか。
 甲板ではなく、岸壁で泣き崩れている女の子も時々、見かける。
 ロイはやさしい男だった。海人がそのことはいちばん、よく知っている。
 声をかけ、送ってやったのだ。
 だから、電話番号を書いたメモを持っていたのだ!

 おっしゃあ!!

  12

 非番の午後七時、ドアをノックする音が聞こえる。
 藤原康介は指定された日時に早すぎず、遅すぎず、かならずやってくる。
 深雪が鍵を渡そうとしても、けっして受け取らない。
 彼は玄関で靴を脱ぐと、きちんとそろえる。
 部屋に入ると、古い小型トランクと紙袋を持ったままトイレと兼用になったバスルームに直行する。
 あとを追おうとすると、彼はドアの把手に自分で用意した鎖に南京錠をかける。

 洗濯機の前に置かれた小さな古いトランクに、脱いだ衣服は折り畳まれて入っている。それにも鍵がかかっている。
  
 初めての日、彼は一度きりの我慢だと思ったから、心を許した証に自らの欲望の有り様を見せたのだろう。しかし、深雪が気まぐれで脅迫しているのではないと知った瞬間から笑顔はおろか、ひと言も話さない。
 次の非番に、深雪がモンブランの万年筆をチラつかせると、奪い取り、彼は裸のまま肌寒いベランダに飛び出した。
 夜道にむかって投げ捨てると深雪は思った。
 康介はコンクリートの四隅の一画に万年筆を立て掛けると、素足で踏みつぶそうとした。
 モンブランは壊れない。
 怒りに満ちた顔を上気させた彼はキッチンにとって返し、プラスチックの俎を手にすると、縦に持ち、なんども振りおろした。
 万年筆は粉々に砕けた。

 服部海人への想いの深さと反比例する、自らへの彼の憎悪の深さを見せつけられ、深雪は歓喜で身震いした。

 憎まれれば憎まれるほど、深雪の彼への情欲は強まる。
 どれほど抗おうと、康介は深雪の腕の中から逃れられない。

 彼はバスルームで精液を出し切り、買ったばかりののバスローブを紙袋から取り出し、まとって出てくる。
 生け贄のように深雪のベッドに仰向けになる。
 医療用の頭部を固定する枕を、深雪は彼に強要する。
 
 全裸の深雪が彼のバスローブの前をはだけでも、閉じたまぶたが開くことはない。
 しなやかなブロンズ像だと、深雪は思う。
 一見、痩身に見えるが、触れると筋肉質だとわかる。右手がやや長いのは、テニスをしてたのだろう。右の掌にグリップのあとがある。
 唾液がなくなるまで全身に舌を這わせても、体温のある人肉像は身じろぎひとつしない。
 サイドテーブルに置かれた彼の腕時計は五分刻みですすんでいる。
 深雪は両足をひらき、彼の顔面にみずからの性器を密着させる。彼は頭を動かせない。深雪は喜びを隠しきれず、みずからの顔を彼の性器の茂みに埋める。
 この一瞬のためなら、どんなことでもする。
 彫刻で彫ったように美しい顔、象牙色の肌と性器はだれにも渡さない。
 どんな汚い手もつかう。

 二週間前、供述調書から服部海人の上司、香坂さよりの名を知り、深雪はロイ・ガードナーの不審死について尋ねたいことがあると言って彼女を呼び出した。
 地味な私服で出かけ、人目のつきにくい公園で会った。
 警察手帳を見せて、刑事課に所属していると偽って安心させておいて、服部海人と藤原康介の関係を聞き出した。
「藤原康介はゲイなんですよ。服部海人が欲しくて汚いマネをしたんです」と、小皺の目立つ肥った中年女は思いつめた表情で言った。
「あら、そうなの。藤原康介とわたしは週に一度、会ってるのよ」
「まさかっ」
 怪訝な表情の香坂さよりに、ベッドでからまる二人の写真を見せた。といっても、深雪自身は両開きの足しか映っていない。映りはよくないが、深雪の股の間で横たわる男が、藤原康介であることはわかるはず。康介本人は盗み撮りされたとは思ってもみないだろう。ベッド脇の卓上ランプの傘に超小型サイズのカメラを取りつけておいたのだ。電球をともす紐状の細い鎖を引っ張れば、写真がとれる仕組みになっている。
「わたしも写真を撮っておけばよかったわ」
 服部海人を手放さずにすんだと、彼女は悔しがった。
「いまからでも、遅くないわよ」
「でもわたし、一応、人妻ですから――」
「つまらないことにこだわるんですね。家庭を壊さない範囲で、お互いに愉しんでも犯罪にならないわ」
「そうですよねぇ。夫となんて、何ヵ月もごぶさたですもん」
 香坂さよりはなんでも話した。秘密をもてない女だと思った。藤原康介のせいで役職を失い、希望しない親会社の雑用係に移動させられたと言う。
「気の毒ね。でも彼、どの道、役職に就いたと思うわよ」
「彼氏に、わたしをもとの職場にもどすように言ってちょうだい――と言いたいけれど、松木組の後継者だからムリよねぇ。でも刑事サン、そんな相手と付き合っていいんですかぁ?」
「これも仕事だと思ってるから――暴力団の内部情報を知るためには、こっちもからだを張るしかないの」
「ほんまですか、たいしたもんやわぁ。見習いたい」
「二人にあやしい動きがあると、報せてくれる社員はいないかしら? もちろん、手数料は払うわ」
 二人と机をならべる男――事務屋に金をやり、逐一、康介と海人の動静をさぐらせると香坂さよりは約束した。
 深雪はその場で、封筒に入れた十万円を差し出した。
「このお金は、あなたがいくら取って、相手にいくら渡すかは自由よ。情報の内容によっては、もっとはずむわ」
 香坂さよりは両手を胸の前で組み、満面の笑みを浮かべた。
「いまから言うことは、あなたの気持ち次第よ」
 断ってもいいと言ったあとで、
「服部海人と以前の関係に戻ってもらえると、助かるんだけれど。一度に、三万でどうかしら?」 
 彼女は茶封筒を握りしめた。
「あっ、いまは、まだ待ってね。彼の弱味を探り出したらすぐに連絡するわ。事務所の電話番号を教えておいてね」
「これで欲しかった服が買えるかも――ちょっと足らへんかも」
 服の領主書を見せれば、その金に上乗せすると、深雪は約束した。
 実家の売却額は、二億円だった。諸費用と税金を支払っても、一億円は残る。老後のためにとっておきたいとは思わない。

「あなたは永遠にわたしのもの」と、深雪はため息まじりにつぶやく。
 人肉の像――ナルシスに深雪は身も心も捧げる。泉に映った自らの姿に恋して溺死するナルシス。康介は、海人に自らの姿を映しているのだ。
「逃げようなんて、バカなことは思わないでね」

 康介には厳命してある。もし、海人と親しくするなら、極秘文書となっている未解決事件の証拠を提出し、再捜査するように上層部に直訴すると。

 言葉だけで脅迫しても意味がない。安心できない。
 英美子の店で見かけた黒服の男ーー山野辺悟の動きを詳細に調べている。二件の行方不明事件の手がかりだけではない。服部海人に関する不都合な事案も見つけられる。

 三十分経過すると、康介の腕時計のベルが鳴る。彼は、胸の上の深雪をはねのけ、バスルームにもどる。シャワーを浴び、着替えると、一度も振り返らずに出ていく。
 入れ代わりに、奥目の石垣が入ってくる。ぞっとする容貌をしている。ヤクザと見分けられないように集合住宅のメンテナンスの作業員の服装をするように命じている。

 藤原康介が深雪の部屋にやっくる日に、かならず石垣をベランダが見える戸外で見張らせている。
 康介に殺されないためだった。何事かあれば、ベランダへ飛び出すつもりでいた。

 情報を得るために、石垣を利用し、操るのは簡単だった。
 街角に立つ女に身をやつしし、石垣のアパートを訪ねた。
 頼みがあると言って、この部屋に誘った。
 石垣は、深雪が警官であると知っているので当初はおどおどしていた。
 命令口調で言葉をかわすうちに、この男が、石垣の弟分だと知った。
「調べれば、後ろ暗いことだらけなんでしょ? 二人とも」
「わいを、わいを、しばき倒してくださいっ!」と、石垣は両手を床について懇願した。「兄貴だけは、かんにんしたってほしいんです。兄貴がおらんかったら、わいはとっくの昔に死んどりました」
「たったら、いつ、死んでもいいわけね」
 不幸な生い立ちであることは、見ればわかる。ヤクザになるしか、生きるスベがなかったのだ。生まれる場所が異なれば、働き者で一生を終えたかもしれない。
 深雪は裸になるように命じた。
 なぜ、そんなことを口にしたのか、自分でも説明がつかない。
 康介との関係は不毛だった。
 唇を、陰部を彼の性器にどれほど粘着させても、彼を昂ぶらせることはできない。深雪自身も達することはない。皮膚の下に、抑えきれない興奮と怒りだけが残留する。どこかに吐き出さなくては、狂い死ぬだろう。
 小柄だが、脅しをかける身振りや言葉つがいから一見、凶暴な男に見える。しかし、しばらく話すうちに、父親と変わらない小心なタイプだと気づく。この男なら、内奥でうごめく欲望を受け入れると直感した。父が恵美子にひれ伏したように。

 石垣は話さずとも、深雪の意図を感じ取った。
 裸にになると、正座し、上目遣いに深雪を見上げた。
 局所は両手で隠した。
 石垣の頬を手の甲をはたいた。
 たちまち石垣の奥目が燃え上がった。
「どうして痛めつけられたいの?」
「オカンに殴られて育つうちに――だんだん気持ちようなって――兄貴はそれを知ってるから――殴ってくれるんやけど、なんや、ちゃうんですワ。どない説明してええか、わからんのやけど」
「相手が女でないと、ダメなのね」
 石垣はうれしげに笑った。無邪気な子供の顔になった。
 いっしょに暮らす女にいくら求めても、歯のほとんどない女は、男に奉仕するすべしかしらないので、思わず殴ってしまうのだと言う。

 その夜から、二人きりの儀式がはじまった。

 深雪は今夜も、康介が脱ぎ捨てていったバスローブを石垣に与える。深雪自身は石垣の見ている前で、黒い縁かざりのついた蜘蛛の巣を模した柄のブラジャーとパンティ、ガーターベルトをつけ、太ももの途中までしかない黒いストッキングをゆっくりとひきあげ、ガーターベルトで止める。仕上げにピンヒールをはく。

 わたしは、男たちになぶりものにされる〝O嬢〟じゃない。

 石垣の眉のすぐ下で光る目は、開きっぱなしになる。
 深雪は、康介で満たされなかった淫靡な欲望を、醜い小男を痛めつけることでさらに高め、貶め、意識下で惰眠をむさぼる別の女を目覚めさせ発情させる。
 石垣は嬉々としてひざまずき、ご主人様が語らずともかしずき、のぞむままに下準備にはげむ。
 ベッドに下の丸めた敷物を引っ張り出す。
 階下に、騒音が響かないように敷物を広げる。
 黒い蛇のような皮製の鞭をサイドテーブルの抽き出しから手探りで引き出し、ご主人様の手元にささげる。そして、自分の声が漏れないようにバスローブの紐で口のまわりをしばり、それを噛み締める。
 
 二度と、康介が手を通さないバスローブを敷物の上にひろげ、石垣は四つんばいになる。
 からだの至るところに刺青を施した小男の臀部を、深雪は鞭で慈しむ。康介にないもの――倫理や秩序を無視した体躯は、強靭に見えてそうではない。軟弱で従順だからこそ、背徳の快楽を与えてくれる。
 刺青で鮮やかな色に染まった臀部の肉が裂ける。赤い線が幾筋もつき、血がにじみ、吹き出てくる。
 石垣は嗚咽し、歓喜の涙を流す。
 割れるように頭が痛い。
 この男を邪険にあつかえば、あつかうほど、からだの芯が醒めていく。

 康介で得られない愉悦は、バスローブをしたたる血に染めることで濾過され、邪悪な享楽へと変貌し酔い痴れていく――。

 石垣を性の奴隷にすることで、気づいたことがある。
 康介を密かに思って自らを慰めていた、そのとき、胸がつかえるほどの頂きにのぼりつめることができた。
 恋にときめていた自分を抱き締めてやりたい。
 いまの深雪は、等身大の深雪ではない。
 頭の中で描く、理想の形状をした康介という名の人肉を引き裂きたい、食いつくしたい――。
 服部海人に復讐したいと思っていたことさえ、いまではさだかではない。
 康介を殺したいのか、生かしたいのか、わからない。
「……うぅうぅうぅ……」
 うめき声の合図で、深雪は鞭を捨てる。息も絶え絶えの石垣はバスローブの紐を口からはずし、「たのんます」と言って仰向けになる。
 深雪は、石垣が両手でおおい隠す局所を、ハイヒールの踵で踏みつける。彼の性器をはじめて目にしたとき、深雪はわが目を疑った。深雪の知る男性の性器は学生時代に付き合った男と藤原康介の二人きりだ。石垣のそれが異常に小さいことはひと目でわかった。足の親指をわずかに太くし、長さは10センチほど。陰毛もほとんどない。
 石垣は弓なりになって射精する。「おかあちゃん、かんにんや、かんにんしてくれ……」
 金の指輪をはめた指の間からわずかな精液がもれる。乳白色の涙がしたたっているようだった。目にするたびに、深雪は悲鳴をあげそうになる。幼子を犯している錯覚を覚えるからだ。石垣は深雪に母親の姿を重ねている。心とからだの内側にかかえる鬱屈が解き放たれるやいなや、瞬時に打ちひしがれるさまを目の前に突き付けられる。深雪はおのれの醜悪さに絶望してしまう。父と母も形は違っても、同じ苦しみを味わったのではないのか。社会的成功を得ても、性の渇きに耐えられなかったにちがいない。

「じつは――」と、血と汗にまみれた石垣が、バスローブに身をつつみ、「カイトのやつ、えらいことになってますねん」と話しはじめた。
 深雪は嫌悪感と虚しさで身も心も疲れ果てていた。
 しかし、六日に一度の地獄のような享楽がなければ、退屈な日常を生きられない。
 ベッドに腰かけ、帰れという仕草をした。
「ダチのせいで、運び屋になってますねん。いまにつかまりまっせ」
 時間の問題だと言う。山野辺は警察にタレこむつもりでいると。
 深雪は表情を変えずに、後片付けをし、バスローブを始末して帰るように言った。

 服部海人は藤原康介のせいで麻薬にかかわっている!

 翌日、2係と交替し、夜勤となった深雪は昼食時間に、香坂さよりに会い、要件を伝え、金をわたした。
 警察署と彼女のオフィスとは、徒歩で行ける距離だった。
 香坂さよりの表情は一瞬で、欲情の虜になった。肩で息をし、唇を舌で舐める。
 この女を羨むおのれが、うとましい。
 しかし、これで服部海人は自滅の道を歩む。
 康介と海人は太陽と海のように永久にけっして交わらない。

 その日のうちに、香坂さよりは、深雪のデスクに電話をかけてきた。忙しい最中だったが、
「で、どうだったの?」
 セックスのことを訊ねたと勘違いした彼女は、電話口で忍び笑いをもらした。
「刺激が強すぎたけど、わるくなかったわ。ただね、ホテル代は別に払ってほしいんやけど、あきませんか?」
「いいわよ」
「場所が場所やったから、コーフンしてたわ、彼」
 脅しがきいたのだと、深雪は思った。海人は、母親と康介のためならどんな犠牲もはらう。頭をカラッポにして、反吐を吐きかけたい女とでもからだを繋げられる。海人と深雪の違いはそこだった。深雪は石垣とけっして繋がれない。

 六日ごとにやってくる康介もおなじだ。
 深雪を辱めるために、彼はやってくる。

 石垣は喜んで鞭打たれるけれど、康介の身代わりにはなれない。
 康介が苦しみでのたうち回る姿が見たい。
 服部海人に何かあれば……。
 なぜ、海人は、運び屋の件で、税関にあげられないのか?
 疑問が頭をもたげる。

 夜勤明けの早朝、いつものように大部屋の掃除をする。
 宿直員の残した湯呑み茶わんを洗い、片づける。そのあいだに緊急の通報が入れば、地域課の三係に伝える。宿直の刑事にも報告する。
 この状態が、午前八時までつづく。
 港島署での勤務初日、三係が夜勤だったので、宿直の刑事らと鬼ヒラは一緒に行動したのだ。本来なら、深雪も三日に一度の夜勤になるはずだが、交通事故の後遺症を理由に刑事課員とおなじ五日間勤務し、六日に一度、非番になる。

 鬼ヒラは非番明けの日、かならず遅れてやってくる。
 出勤後も何かに苛立っている。
 周囲は鬼ヒラを煙たがり、刺激しないように敬遠してるのが次第にわかってきた。とくにギョロ目は鬼ヒラの視界に入るのさえ恐れているふうだった。
「海岸通りでひったくり事件があったそうです」と、猫背が報告すると、鬼ヒラは、「ほっとけ」と言った。
 深雪は自分の耳が信じられない。思わず、「緊急の110番通報ですけれど」と言った。
 ギョロ目と猫背が目くばせをした。二人が出ていくと、鬼ヒラは吐きすてた。
「じゃかましいんじゃっ! 行きたいヤツが行ったらええんじゃ!」

 鬼ヒラは、レストランで食事をしたとき、長谷川千賀の忠実な部下に見えたが、地域課にいるときの鬼ヒラは別人だった。
 部下に腹を立てると、ハンチング帽を投げ捨て怒鳴り散らす。
 不精髭はそらず、ヨレヨレのジャンパーをはおり、何日も風呂に入っていないのか、体臭が強い。
 鬼ヒラは妻と別居しているとギョロ目に聞いた。
「ちょっと前まで、ああやなかったんやけど、長谷川警部補と行き違いがあったみたいで、ここのところ機嫌がようない。立場がわるうなったらしい」
 そう言えば、長谷川千賀からなんの連絡もない。
 鬼ヒラは声をふり絞った。「もっとなぁ、おおっきな事件にかかわらんと、一生、地域課どまりなんや」 
 刑事課にもどりたいようだ。
 地域課員の前で、禁句を口走る鬼ヒラを利用すべきだと、深雪はひらめてた。

 鬼ヒラの異変には原因があるはずだ。深雪は、アパートに帰り、石垣を呼びだした。鬼ヒラこと平田刑事と親しい組員がいるかどうか、調べてほしいと。しばらく、石垣は考えているふうだったが、「わかりまへん」と言う。
 仏頂面をする深雪の顔色をうかがい、「あのおっさん、昔はしょっちゅう、うちの組に出入りしてましたんや。それが、例の事件のあと、ぴったりこんようになってーーわい、思うんですけど、あいつは、ヤクザの側にもひっつく警察のスパイないかと」


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