ある7月の夜のこと

観ていた映画を止め、窓に視線を向けた。
空が光った気がして窓に目をやったものの、耳から聞こえた雷の音で答え合わせが終了し、行き場を失った視線で、なんとなく時間を確認した。

時計は22時前を指している。

それにしてもすごい雨だ。
映画を見ていて気が付かなかったけれど、20時ごろからこの街には雷雨が訪れていたらしい。

窓に近寄って、そっと外の世界を観察した。
外を歩いている人はみんな足早になって傘を揺らしている。家の近くのファミレスの看板が煌々と光っているけれど、車は一台も止まっていない。
今日あのファミレスに入っているバイトは、明るすぎる店内で空模様を気にしながら営業時間が終わるのをただひたすら待っているのだろうか。

窓に耳をあてる。
ガラス越しのあちらの世界では雨が大きな音を立てて地面に叩きつけられ、雷が人々を牽制している。
わたしは空中に浮かんだシェルターの中からただその様子を眺めている事に罪悪感を感じ、ゆっくりと窓を開けた。

その瞬間、外の世界を覆い尽くしていた熱気と湿気と大きな雨音が私の身体を包んだ。
さっきまで自分がいた空間とあまりに違う空気感にびっくりして、私はお気に入りの家具に囲まれた、冷房で冷気いっぱいにした室内を振り返る。
テーブルには映画の途中でポットに入れた紅茶が湯気を立てていて、テレビの中ではライアン・ゴズリングが再生ボタンを押されるのを待っている。

ガラス一枚隔てて違う世界だった2つの空間は、境界線を失って混ざり合い始めた。
ただ暗いだけじゃなく霧が立ち込めて不穏な空気を醸し出す灰色の空、光と音の隙間を徐々に狭めて確実に近付いて来ていることを知らせる雷、その遥か下で叩きつけられた雨をものともせず佇む家々の様子をひとしきり眺めた。
徐々に部屋が生暖かくなって、その癖、紅茶から立っていた湯気は消え去り、待たされていたライアン・ゴズリングがおそらく痺れを切らした頃、突然馬鹿らしくなった私は窓を閉めた。

窓の外では、傘を忘れたらしき人が全速力で走っていた。
もうわたしには雨の音も聞こえないし、さっきまで感じていた熱気も湿気も、忘れてしまった。

ガラス一枚隔てたあちら側の世界で起こる事象は、もう他人事だ。

置かれた状況や価値観が違う人に対して、同情したり共感したりアドバイスしたりなんて、どうりで上手く出来ないはずだ。
どんなに相手のことを想ったって所詮それは想像にすぎないし、お門違いに共感して同情するだけでは人の役には全く立てていないというのも皮肉だ。
なのに人は、勝手に請け負った共感や同情でしっかり影響を受け、物思いに耽ったり悲しくなったりするんだから割に合わない。

などと捻くれた思考を巡らせながら、冷めた紅茶を一口飲んで、待ちくたびれたであろうライアン・ゴズリングにリモコンを向け、再生ボタンを押した。



映画を見終わった今、結果だけ見れば、紅茶は冷めても美味しかったし、ライアン・ゴズリングは私に向かって文句の一言も言わなかった。ちなみに言えば効きすぎた冷房によって冷え切った部屋は外の空気と混じり合ってちょうどいい温度になった。

シェルターの中は居心地がいいけれど、外の世界と混じり合って色々な体験をするのも、それによって影響を受けるのも私が思っているより悪くないはずで、行動する前に自分が受ける損失を考えすぎていては、きっと私は成長できないだろう、と相変わらず極端に考えた7月の大雨の夜。


ライアン・ゴズリングの映画は、ブルーバレンタインが1番好き。








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