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私を傷つけるのはいつだって私だった


ひょんな事から人のまっすぐな優しさに触れてしまった時に、死にたくなるのは私だけだろうか。

人の優しさは、狙ったかのように私にとって1番嫌なタイミングで、予期せぬ方法で私を追い詰める。

人に期待せずに生きると楽だと、傷つくことが減ると。そう聞いたし、私の経験からしてもこれは正しいはずだ。
(これはもう人に期待しないでおこう。と思ったわけではなくて、自然とそうなってしまっただけなんだけど。まぁ格段に生きやすくなったし、ある程度の経験を積んだ大人はこうなっていくんだろう。)

だけど一つ盲点があって、人に期待せずに生きている人間は不意に優しくされてしまった時、自分が普段見てる世界を疑わざるを得なくなる。

サングラスをかけていた視界に不意にカラフルな風船が入ってきたみたいに。
イヤホンから聞こえる曲の切れ間にストリートバンドの音が飛び込んできたみたいに。
一度サングラスやイヤホンを外さずにはいられないのだ。だってびっくりするし。

今一瞬意識に飛び込んできたものは自分の見間違い、聞き間違いなのか?でも間違いじゃないといい。カラフルな風船も、生演奏も、見えたり聞こえたりしたら嬉しいから。
でももしそれが本当だとしたら、私は今まですごく不便でつまらない状態で生きてたことになる。モノクロで既に知っている音だけを聞く世界で生きてきて。
だけどしょうがない。色とりどりのものは綺麗だけど見すぎたら疲れてしまうし、それは音も同じだ。全部聞こえたら便利だけど、知りすぎなくていいことだって多いはずで。それによって自分が傷つくことも辛いこともあるはずだから。
私は自分を色んな物から守るために世界から色彩を消して音を消して、それが当たり前みたいに生きてきたということだ。
そしてそれは100%で絶景を見る事も、その瞬間しか聞こえない音を聞くことも諦めたという事を意味する。
なんだかそれは悲しい。
悲しいし、もったいない気がする。

優しいことをされて本来単純に幸せでいればいいはずなのに、なぜか今まで見てきた自分の世界を疑って絶望しまう。

人に期待しないという選択はとても効率的だけど、その選択をした人はおそらく既に傷だらけだから、優しさが沁みすぎるのかな。
傷口を消毒された痛みみたいなもんか。
いや、違うか。
痛み止め目的で麻酔を打ったのにガーゼを貼られたことを認識できてしまって、痛み止めの効果を疑ってしまう感じ?


だけど、せっかくの優しさとか思いやりで悲しくなるなんて、やっぱり自分を傷つけてるのは、蔑ろにしてるのは、いつだって自分自身だ。それに優しくしてくれる人達に失礼だ。


ガーゼを貼ってもらったことだけに目を向けて、シンプルに感謝を伝えて、そんな日常に安心だけしてたいものだな。


なんて考える金曜日の午後。
やっと週末だ〜〜!!


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