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無理やりオックスフォード大学の学生になった話その14 :次なる挑戦

学問にも、高等教育にも縁がなく日本で育った私がイギリスに渡り、オックスフォード大学の学生になるまでと、なってからの逸話自伝エッセイ。
経済的、精神的な苦労もなく甘やかされてワガママに生きてきた日本女性の半世記。


子供たちもすくすく育ち、病気することもなくピーターも子煩悩で私より子供たちのことを心配したが、子供たちが成長するにつれ、それぞれのパーソナリティが顕著になってきたりするのをみるたび頼もしく笑いも多くなり、ピーターの躁鬱の薬の量も彼が鬱々することも減ってった。


子供たちが小学校に上がると夏休みはヨーロッパのリゾート地に出かけた。ビーチホリデーなんてそれまで興味なかったが、子供たちと海辺でははしゃぐのは楽しかった。娘とふたりだけで旅行にいくこともたびたびあった。日本や友人のいるコペンハーゲン、ロンドンやブライトンにも日帰りでよく出かけた。女二人で食事や、ショッピングに行くのは楽しかった。

買い物をして溜まっていたエアマイレージで2人分のビジネスクラスでアメリカのどこかの都市いけることになった。それで春休みには娘とサンフランシスコに行くことにした。バックパッカーの時に行った場所を再訪したり、行けなかった美術館に行ったり、娘とゴールデンゲートブリッジをサイクリングで渡ったりした。初めて訪れた時、また数年後にこようと思って、実に26年ぶりになってしまった。

ピーターは私が一人旅をすることも許してくれた。ある年の秋には以前テロで中止になったパリのアートフェスティバルが再開することになり、そこへ日本人の男友達が出展するので、彼もパリに来ることになった。前回のリベンジを果たすため、その年も行くことにした。一度行ってしまうとユーロスターのロンドンーパリ間は新幹線で東京ー京都間と距離も時間も同じような感覚で気軽に行けてしまうのであった。

友人の所属する東京の画廊がブースを持ちその画廊の代表作家として彼の作品が大々的に飾られていた。

私がまだ日本に住んでいた時、彼とはロマンチックな関係になりそうなことがあった。でもその時にはお互いに彼、彼女がいたし、芸術の話ができる友人としてプラトニックな関係を保っていた。それで時間を超えてその時までもいい友人でいられてパリで再会できたことを嬉しく思った。ブラセッリーでワインを飲みながら、積もる話をした。その後小雨降るパリの街を長い散歩をするうち、ロマンティックな雰囲気になってしまったが、そこでもわたしたちは友人以上の一線を超えることがなかった。そんな男友達がいることを誇りに思う。

彼とは同じアートセミナーで同期に学び始め、彼は美大の非常勤講師として教えたり、毎年4、5回の個展を開くなどコツコツと自分の作品を20年以上も作り続けてきた。そんな彼を心から祝福すると共に本当に羨ましかった。

彼からしたら、遠い外国に一人できて、就職して、家族を持って頑張っていると思ってくれていたことだろう。

本業でも副業でも一応クリエイティブな仕事をしていたので課された課題を想像力で解決していくというようなやりがいがあり、上司や、同僚、フリーランスのクライアントにも喜んでもらえているという充実感があった。収入もそこそこあり、それまでできなかった消費生活を楽しむことができた。でも仕事で制作したものは製品であり自分の作品ではない。私は自己表現のための作品を制作をしていなかった。
 
「私もパリで作品を発表したい。」そんな事をふと思った。

この頃、生活面、精神面では満たされていたものの、少し方向性を失っていた私は何か目標になるものが必要だった。ともすればあと30年、40年生きることになるかもしれないのだ。何か意味のある目標が良かった。
これを目出す夢にしよう。目標ができた。

いつになったらオックスフォードの学生になった話になるんだと思っている方、それはこの時点から5年後のことです。
続く



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