他人事が救えるもの

他人事って、悪い言葉ではないと思う。

私はよく社会での人の関係性を図で想像する。
真ん中に[対象者]が存在していて、
そこから円状に家族、恋人、親友、友人、知り合い、顔見知り、他人〜と、人によって少々違いはあるかもしれないが、円の外方向に関係性が離れていくとする。

この人と人の距離感というのは、それぞれがそれぞれにしかない大切な役割を持つ。
この距離感によって対象者に対して考えることや、抱く感情は異なる。
例えば、対象者が受験に失敗したとする。
家族や親しい友人は、対象者の第一志望への思い入れを知っているので、一緒になって悔しがったり、残念な気持ちを共感してくれるかもしれない。しかし、他人事なら、共感よりももっと現実的な観点に着目するだろう。例えば、落ちた学校より第二志望の学校の方が優れている部分を比較することができたり、悔しいと感じた経験を今後活かしていく方法を教えてくれるかもしれない。
考え方によっては、共感よりも他人事の少し冷めた現実主義の方が役立つとも考えられる。(比較的友人が少なく、理論思考な私だけかもしれないが。。。)

他にも、遠い距離だからこそ肯定できることもあると思う。肯定という言い方は正しくないかもしれないが、対象者がした判断を、尊重できることもあると思うのだ。
この様々な関係性と距離感そしてそこから派生する感情の違いがこの社会を補い合っているのだ。


私は昔、こんな記事を読んだことがある。
〔記事を一生懸命探したが随分前のもので見つからなかった。申し訳ない。人の記憶は脚色を加えやすいし、私の脳みそは信用ならないので、「そんな感じの話があったのかもなあ」程度に聞いてほしい。〕

自殺防止対策としてボランティアで電話相談を受け付けている団体がある。その団体で相談員を行なっている女性のエピソードを読んだ(気がする)。
いつものようにかかってくる電話をその相談員がとると、相手は自殺願望を訴えた。
相談員は、相手の話を聞きながら、どうにか自殺を食い止めようと説得を試みた。
すると相手は、「どうして私の決断を理解してくれないの?」と訴えた。
このようなやり取りが何度も続き、相談員は、最後の最後に「あなたの決断を尊重します」と伝えた。
すると、「ありがとう」と言って相手は電話を切った。
その後電話の相手はどのような行動をとったのかはわからない。
そして相談員は、その時のことを何度も思い返しては何度も悩む。何が正しかったか、なんと言ってあげたらよかったか今でもわからないと話していた。


私はこのエピソードを読んで、相談してきた相手は、最後に誰かに肯定されたくて電話をかけたのだと思った。
人は誰でも自分の言動が受け入れられることで、前を向くことができるのだと思う。
私もそうだ。不安なことがあると自分の決断を周囲の人に相談し、どうにか自分に自信を持ち、自分の存在を認めてもらうために肯定的な意見を探してしまう。
彼女の決断は私の悩みと重さは違うのかもしれないが、最後に相談員から肯定してもらったことで、自分自身の存在を自分で受け入れることができたように思う。
これは凄いことだ。

昨今芸能人の悲しいニュースが相次いでいる。
「死んだら終わりなのに」
「なんで死んじゃうんだろう」
Xなどで様々な人がその決断を否定している様子を目にする。
もちろん愛する人が亡くなった悲しみは計り知れない。
私も同じ経験をしたら肯定だとか悠長なことなど言っていられないと思う。
しかし、世界にはたくさんの人がいる。
それぞれが等間隔ではなく、不思議な不揃いな距離感で、ただなんとなく纏まった形を保ってそこに存在している。
ならば、
他人事の価値観で肯定する人が、この地球のどこかにいなくてはならないような気がするのだ。
この距離の遠さがもたらす愛もあると信じたい。


「最後の決断くらいは、この遠い距離の私くらいは、貴方の決断を肯定したい」
という私の考えは、果たして倫理に反しているのだろうか。

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