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いつまでも愛するとは言わなかった。けれど。

一体いつ寝ているんだろう、と思わせるような人がテレビの世界にはいくらでもいて、売れっ子のタレントや芸人さんなど、さぞかし過酷なスケジュールをこなしているのでは、と想像します。

そのうえ多才な人ともなると、本職の合間を縫って別分野でも仕事をし、玄人はだしの成果を上げてしまったり。


そんな一人で、読書家でありエッセイストとしても知られる有名な芸人さんが、面白いことを言っていました。

その人は“不満”が執筆の原動力で、誰も自分をわかってくれない、誰とも気持ちを分かち合えない、そんな考えから何冊もの本を書いたそうです。

ところが、次第にその考えが変化して、それでもいいか、理解されるとか分かり合うなんて、別にもういい。そう思ったとたん、全く書けなくなった、とのことでした。

周囲への不満がなくなり、伝えたいことも同時になくなる。
心理的には良い変化でも、物書きとしては危機的状況のため、なかなかに難しい問題です。


色々な人のnoteを読んでいると『練習のため』『勉強のため』『とにかくアウトプットするため』に書いている、という明言に出会うことがあります。

けれど、その人たちが全く誰にも理解されずに結構、と考えたり、読み手を無視して好きに文章を綴っているかといえば、それも違う気がします。
いくら自分のためと宣言しても、皆、誰かに伝わった、共感し合えた、という瞬間のため工夫をこらしているはずです。



かつてフランスの映画監督ジャン=リュック・ゴダールは、作中で主演女優に
1秒は映画だと24コマ。だから映画は現実の24倍真実よ
と語らせました。

これはまだフィルムで撮っていた頃のお話で、映画の世界では、1秒の映像を見せるのに始まりは16コマ、やがて24コマ分を使うようになりました。


コマ数が増えたのは、その方が動きがより自然に見えるからと、もうひとつ、それが最もタイミング良くきれいに音がつけられるから、という理由があったそうです。

映画はスクリーンに投影される映像が全てではなく、音もきわめて重要だと、作り手たちは痛感していたのかもしれません。
試しに音を消して観ると、同じ映画でもこれほどつまらなくなるのかと驚かされるほどですから。



けれど何ごとにも例外はあり、諸般の事情ですっかり映画界から遠ざかっているウディ・アレンの監督作『インテリア』(1978年)では、音楽が一切流れません。

聞こえるのは波の音や人々の話し声、ドアの開閉に食器の音など、日常生活の気配だけで、場を盛り上げたり、何らかの効果を増すための音がないのです。


映画を観ている最中はひどく静かだなと感じるのみで、その印象は外付けの音響がなかったからだと、エンドロールで初めて気がつきました。

登場人物がごく静かに話し、決して声を荒げない映画も時々はありますが、それでもわずかの音楽も効果音もなく、作品として完全に成立している例を、私は他に知りません。



反対に、先述のゴダールは作中で音という音を自由自在に活用しました。

彼のどの作品でも、言葉、音楽、効果音が目まぐるしい映像と一体になり、怒涛のようにあふれ、流れていきます。


特に『気狂いピエロ』(1965年)はその代表のような作品で、難解な文学作品からの限りない引用、おびただしい量の台詞、魅力的な歌と音楽に彩られた、悲喜劇的ピカレスク・ロマンです。

ゴダールの他の監督作品『女は女である』のようにポップでも、『勝手にしやがれ』のようにスタイリッシュでも、『軽蔑』のようにシリアスでもなく、その逃走劇には正体不明のエネルギーと破滅的な気配が漂い、夏の陽光や、出演者たちの圧倒的なカリスマ性にさえ、言いしれぬ翳と胸騒ぎがつきまといます。



私がゴダールを好きな理由のひとつが、この人の“耳の良さ”であり、『気狂いピエロ』も、サウンドトラックを繰り返し聴きたくなるくらい、楽曲のセンスと選択が抜群です。

アンナ・カリーナ扮するマリアンヌが歌う『Ma Ligne De Chance/私の運命線』と『Jamais Je Ne T'ai Difgue Je Aimerai Toujours/いつまでも愛するとは言わなかった』は多くの歌手にカバーされる名曲ですし、『いつまでも愛するとは言わなかった』は、タイトル通り“愛の移ろいやすさ”を描きながら、逃避行中のラブソングとして歌われます。


「Jamais, ne me dis jamais que tu m'aimeras toujours」
私を心から愛するとは言わないで

「Jamais ne me promets de m'adorer toute la vie」
永遠の愛など誓わないで

長い歌詞にはこんな一節もあるのですが、それも
「あなたを心底愛している」
「この愛は永遠」
などという言い回しより、かえって刹那的で純粋な愛が浮き彫りにされるという、ゴダール流のひねった表現に感じます。


物事をストレートに言い表すだけが伝え方ではなく、表現には無限の仕様がある。人はそうしていつも誰かに何かを伝えようとしている。
私はそんな風に考えます。

そのための“表現”に、少々偏った例ばかりをあげてしまったことはご容赦を。
けれどほんのわずかでも、何か伝わるものがあったなら嬉しいのですが。

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