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“せっかくしてあげているのに”

テレビ画面いっぱいに映し出される、豊かな自然風景の中を走るワゴン車。
やがて公民館前で扉を開いたワゴン車は、食料を満載した移動店舗に早変わり。集まってきたお年寄りたちの中心に、笑顔の年若い店主がいます。

買い物難民のお年寄りを支える人たちに密着した、素晴らしいドキュメンタリー番組の一場面です。
行く先々で歓迎され、喜ばれる若者に、この人はきちんと人の話が聞け、何が本当に必要なのかをわかっている人なのだなと感じます。


それというのも、最近同じような移動式店舗の、全く異なる話を聞いたからです。

そちらも田舎の限界集落を軽トラックで回るものの、なぜかあまり人気が出ず、赤字続きで、段々と事業も先細ります。
ところが、あと数回限りでの閉店を決心した矢先、なぜかある商品だけが飛ぶように売れ、初めてお客さんにも喜んでもらえるのです。

それが一体どんな商品だったかというと、インスタントのカップ麺です。
それも、体に良い新鮮なものを、と仕入れていたいつもの野菜が用意できず、空きスペースを埋めるために仕方なく積んでいたものでした。

実はその土地では、野菜は自宅で育てていたり、誰かから譲られることが多いため、あえて購入する必要のない人がほとんどでした。かわりに求められていたのは、もっと手軽で簡単に食べられるもの。
店主はその時まで、そんな事情については全くの無知でした。


他にも似たような例があり、こちらは子ども食堂を支援する、あるお寺の住職のお話です。

コロナ禍で困窮する人たちを助けるため、お寺では募金だけでなく、ボランティアを通じてお菓子の詰め合わせも届けてきました。
そのおやつセットは子どもたちにも大人気…のはずでしたが、ある男の子の率直な感想が波紋を呼びます。

「お菓子はうれしいけど、いつもおんなじで飽きちゃった。もっとチョコレートやポテトチップスが食べたいな」

それを耳にした時、住職は正直に言うと面白くないと感じたそうです。
けれど冷静になると、その男の子の言うことはもっともだとも考え始めます。

自分たちは良かれと思っていたことも、相手に喜ばれていないのならば、それは単なる独りよがりや押し付けになってしまう。
善意に対し、ただ感謝しか感じてはいけないはずもない。それなのに、自分は男の子の言葉に苛立ちをおぼえてしまった。

せっかく支援してあげているのに
いつしか相手との間に上下関係を持ち込み、溝を作ってしまっていたのだ、そんな風に気付かされた体験だったといいます。


また、国際支援の現場でも、アフリカの難民施設で、日本からの食糧物資が大量に破棄されていた、という現地報告を聞きました。

日本から送られたのは魚缶で、ベースの味付けは醤油やたっぷりの油。
アフリカの人々には馴染みのない味であり、食べれば喉も渇きます。けれど現地にそれほど潤沢な飲み水はありません。

だから誰もその缶詰を欲しがらず、処分する他はない。もし違う食べ物を届けてくれていたら、こんなにありがたいことはないのに、と現地の責任者が語っていたそうです。


これらのうちのどのお話も、贈る側に無意識の上下関係、“してあげる”という意識が生まれたことが、現実面で上手く噛み合わなくなった原因でしょう。
してあげる”側の人に善意はあっても、それはまさに“あげる”という立場に立っての一方通行のものだったのです。

何かを“してもらう”側の人が「カップ麺を」「チョコレートを」「口にしやすい食べものを」と言うことが難しいのは容易に想像できますし、“してあげる”側が、善意の行為に専念するだけでなく、相手側の真意や希望を汲み取る心配りを持つことこそが、最も必要なのかもしれません。


「どうしてこっちがそこまで。めんどくさいし、それならもういい」
ですか?
けれどそれこそが、お互いにとってより良い結果を導くきっかけとなりますし、相手の望みを問うことは、事実の確認を超え、より深い関係性を作り出す可能性を秘めています。

山間の集落を訪れるトラックは、お年寄りたちのリクエストを聞きつつ今も営業を続けているそうですし、子どもたちへのお菓子のプレゼントも、ずいぶん違う中身になったそうです。

そこに生まれる笑顔や喜びは、きっと“してあげる”人が受け取れる、素晴らしい贈り物であるように思います。



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