「悔やまない」と「悔いのないように」
店を始めてまだ間もなかった十数年ほど前、知人が劇団四季の『コーラスライン』を観に連れて行ってくれました。
『コーラスライン』といえば、オーディションに集まったダンサー達が演出家の質問に答えていく中で、踊ることの喜びを新たにするというストーリーの超有名ミュージカル。
でも、当時わたしは連れて行かれるまま、内容をまったく知らずに観はじめました。
劇中、演出家がオーディションに集まったダンサー達にこう問います。
ダンサー達は、踊る喜びに輝きながらこう答えます。
特別ミュージカルに興味があったわけでもなく、ただ誘われて漫然と観ていたにもかかわらず、なぜか突然このシーンでぽろぽろと涙がこぼれてしまったわたし。
隣に座る知人は戸惑って、「な、泣くようなミュージカルじゃないよ……」と困ったように言ったけれど、わたしは当時自分自身の置かれた状況に重ねて、つい涙がこぼれてしまったのでした。
そうか、確かな未来なんて手放す覚悟で足を踏み出したなら、どんなにつらくても、ここで終わって悔やまないんだ、と。
そうすれば、このダンサーたちのように、こんなに輝けるんだ、と。
将来の不安で頭がいっぱいで絶望的な気持ちになるから、とりあえず今日一日を乗り切ることだけ考えよう、その繰り返しで凌いでいこう、と思って店をやっていたあの頃に観せてもらった『コーラスライン』。
ミュージカルとか音楽とか映画とか小説とか、こうやって魂を掴まれるような瞬間をもたらす力がありますよね。
そして、その『コーラスライン』を観た日からわずか数日後のことでした。
70代の常連様ご夫婦の、ご主人様だけがご来店されました。
いつも決まってご夫婦揃ってのご来店だったので、わたしはのんきに「今日はお一人ですか?」と迎えました。
すると、店の入り口に立ったままのご主人は中へ入ろうとせず、そこで妙にかしこまったまま、「実は……」と奥様が急逝されたことを告げました。
毎回お二人で来店されて、微笑みながら珈琲やおしゃべりを楽しんで、一緒に始めた習い事の楽譜を眺めたりする、とても素敵なご夫婦でした。
奥さまの急逝は、ご主人がお仕事を引退されて、さあこれから夫婦二人の時間を楽しもうとしていた矢先のことで、一番つらい思いを抱えているはずのご主人は、わざわざ訃報を伝えるためだけにご来店してくださったのでした。
そして帰り際、こちらを振り向いてきちんと足を揃えて立ち止まったご主人は、わたしに向かって優しい声でこうおっしゃいました。
誰でも悩みや不安や苦しみを抱えていて、それをいつまで抱え続けなくてはいけないのか、耐えられそうにない時があります。
『コーラスライン』と常連様から、立て続けに同じ言葉を聞いたあの時のわたしは、「ひとまず今日一日を悔いなく過ごそう」と思うことにしました。
「今日が最後だとしたら」と思って過ごすこと自体がとても難しいことだけれど、つらい心境の中わざわざ訪れて、そして振り向いてそれを伝えて下さったご主人に応えるためにも、そう思いました。
あれから十数年経過していますが、そうはいっても「今日一日を悔いなく過ごす」のは、なかなか実践し難いことです。
日常生活は背負い込んだものとともにどこかを麻痺させたままどんどん流れて、「悔いのないよう」などと考える間もなく選択を迫られ、小さな「悔い」が積み重なって過ぎていきます。
十数年前のあの頃のわたしの方がずっと、「悔やまない」よう日々をシンプルに過ごし、自分の選択を信じて、そして輝いていたのかもしれません。
人生は悔やむことばかりだけれど、せめて今日一日の後悔を少しでも減らして、いつか大まかには「あー、よかった」と思える結末に辿り着けるよう過ごしていけたら、と思っています。
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