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作品を人に見せるという事

ずっと何かしらを作ってきた人間として、最近思ったことがある。
「物事は自己と他者の両方が認識しなければ存在しない」。


シュレーディンガーの猫の考え方と少し似ているかもしれない。
もしくは、誰もいない森で木が倒れた時に音はするのかという有名な問い。
これらと明確に違うのは、認識するのが自分だけではいけないという点。
個人の認識というものが、私にはとても不安定なものに感じるのだ。


完全な自己満足でどこにも発表せずに作品を作り続ける人がこの世の中にはいるらしいが、その作品がここに存在しているという自信はいったいどこから出てくるのか。
もしかすると存在しなくても良いと考えているのだろうか。
いや、そもそもこんなくだらない発想は出てこないのかもしれない。


私が何か作品を作ったとして、その存在を知るのが私だけであるならば、それが本当にこの世にあるのかどうか私には自信が持てない。
私の視界にありこの手で触れられたところで、私には私の感覚がいまいち信じられないのだ。
ただの妄想ではないのかという考えが拭えない。


例えば霊はどうだろうか。
殆どの人には見えないし、存在しないという考えの人も多いだろう。
しかし霊が見えている、もしくは感じている人々にとってそれは確実に「存在する」のだ。

私の作った作品もそうなのだろうか。
霊と同じなのではないか。

本当に見えている?この文章も?


だから私は何かを作ったら必ず人に見せる。
人に見せて、何かしらの反応を得て初めてそれが存在すると安心できる。
相手は多い方が私の作品への認識は強固になる。写真なら100人とか。
その為にはできればネットで発信したいし、できるだけ発信しても恥ずかしくないものを作りたいと思っている。
誰にも見せる予定のないものはそもそも作る気が起こらない。
これまで色々な創作・製作系の趣味に手を出してきたけれど、時間とお金がかかるものほどその思いは顕著になる。
これだけ苦労して生み出したものがただの妄想、虚構だなんて!と。

かけたコストには相応の対価が欲しい。
それが私にとっては人からの反応、作ったものが存在するという証明。
褒めてもらえたら更に嬉しい。


巷で悪し様に言われがちな承認欲求と似ているけれど、なんだか少しずれている気がする。
強い承認欲求は自分の価値に自信がない事から起こるものらしい。
私の場合は自分の五感に少しばかり自信がない。
五感はあるけれど、私のそれが伝えてくる情報は本当に正しいのだろうか。

勿論ある程度は信じることにしている。
作品を見てくれた人の反応すら妄想とすることもできるが、相手が実在していたら申し訳なさすぎるのでそこまでは考えたくない。

しかしいざ考え始めると沼に引き込まれるように怖くなる。

私が見ている世界は本物なのだろうか。

夢ではないだろうか。

ごく普通に、平和に生活していると思っているのは妄想で、実は一人で奇行を繰り返しているのではないのか。



もしかするとこれはただの承認欲求より厄介なものではないかと、この記事を書きながら思い始めた。




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