見出し画像

「獏、ですかな」
 わしは床の間に飾られた掛け軸を見て呟く。
「ええ、獏。なんでも、悪い夢を食べてくれるとかで、うちの先代が」
 わたしはあんまり好きじゃないんですけどね、と女将が言い、わしと妻にお茶を淹れてくれる。わしは湯呑を受け取り緑茶を一口啜り、それからおもむろに机の上の饅頭に手を伸ばした。
 ところで、と女将がおずおず、
「夢と言えば……先生の、こないだの」
「え? ああ、わしの書いたこの、陰茎堂シリーズ最新刊・陰茎堂VS夢探偵のことかね?」
 わしはそう言いつつ、懐から一冊の本を取り出す。表紙には指ぬきグローブを嵌めた男──陰茎堂──と栗茶色の髪・赤いTシャツにジーパン姿の中年男性──夢探偵──が描かれている。
 女将が喜色満面で手を叩き、
「ええ! ええ! もう本当に面白くて! ここ一カ月ずっと夜通し読んでいますわ!」
 うむ。確かに女将の目の下の隈は歌舞伎役者みたいになっておる。単なるおべんちゃらではないようだ。
 わしが作家として一本立ちしてもう30年になるか。デビュー当時から書き続けた陰茎堂シリーズはリメイク合わせ都合23度映画化、シリーズ累計の売れ行きも頗る上々。今となっては若い編集担当が毎週のように来神してはわしに平伏し原稿を乞うようになった。最新作を出すたびに既刊が面白いように売れる。各種の印税やらマーチャンダイズやらライセンシーやら、わしの懐に入ってくる金は年々雪だるま式に増えているのだ。
「なんなら、サインでも書いて進ぜよう」
 わしは手にした最新刊の表紙をめくり、見返しにさらりとサインを書いて女将に手渡す。その肩を優しく抱いて頬に接吻してやると、女将が「ウキョキョッ」と黄色い悲鳴を上げて白目を剥き卒倒。
 ふと視線を感じて傍らの妻を見ると、もう60も近いというのに、まるで10代の乙女のように頬をぷっくりと赤く膨らませてわしを上目遣いで恨めしそうに睨む。やれやれ。モテすぎると言うのも罪じゃわい。あはははは。
 まずは妻とともに部屋に備えられた露天風呂へ。長年連れ添った妻の裸なのだが、何というかこう、未だにそそるものがある。10代というのは流石に無理だが、30代後半といっても差し支えないような肌のツヤハリがあり、何よりこの桃のような大きな尻よ。わしがその桃にかぶりつくと、妻が「いやあねぇ♡ あなたったら!」と甘ったるい悲鳴を上げた。
 部屋に戻って夕食。海の幸、山の幸をふんだんに使った料理に夫婦ともども舌鼓。わしらは大いに食べ、呑んだ。
 さて夕食も済ませ、妻と二人、隣り合わせに敷かれた布団に潜り込む。しかしどうも体の一部がカッカして寝付けなんだ。さてはあのスッポン鍋が効いたのであろうか。あるいはあのマムシ酒か。自然薯のポタージュか。わしは矢も楯もたまらず、隣の布団をめくり、妻に覆いかぶさる。妻もまんざらではないのか、「やだぁ♡ 先生ったら!」と可愛らしい声。なんて声を出すのだ。これはもう、たまらんではないか。
 そのあとはもうくんずほぐれつと乳繰り合い、そしていよいよ妻のなかへと分け入る。妻はダウンタウン・浜田雅功を彷彿とさせる「結果発ッ表ォ────!」の「ォ────!」の部分のような、ひと際甲高い嬌声をあげ、弓なりに仰け反る。わしは妻の体にがばっと抱き着き、激しく腰を打ち付ける。む、妻のやつ、見かけによらず肉がついているではないか。いや、つきすぎてはいまいか。これではまるでベイマックス。
 夜空の雲が途切れ、月明かりが窓から部屋の中に差し込んだ。わしの体の下にいる妻の顔がはっきりと見える。その頭部は脂ぎって頭髪は禿げ上がり目は小さくて唇はやたら分厚い。顔にも首にも乳房・腹にも、恐らくは下半身にも、たっぷたぷの贅肉がついておる。そしてその鼻はぶよっと膨れ上がり、べろりんと象のように長い。それが乳房を通り過ぎ腹のあたりまで伸びておるのだ。こいつは妻ではない。誰ぞ?!
 うわっ、とわしは腰を引こうとするのだが、その男(!)の太い両脚が、がっちりとわしの腰を挟み込んで身動きがとれぬ。わしはそいつの顔を見る。ニヤニヤとした、実に厭らしい笑み。

 そこでおれはハッと目覚める。全身に厭な汗。何という夢……夢! このところ残業続きだったからだろうか。それにしてもひどい悪夢、なんと生々しい! あの男の吸いつくような肌の感触が、未だ全身に残っているような気がして、おれは思わず身震いする。
 ベットから起きて、顔を洗い、のろのろとリビングに向かう。「おはよう……ひどい顔ね」と妻が言うので、おれは「いや、うむ……」と、もごもご言いながらテーブルにつき、新聞片手に、もそもそと朝食のパンをコーヒーで流し込む。一度シャワーを浴びようかと思ったがもう時間がない。おれは再びのろのろ立ち上がり、髭を剃り、着替え、「行ってくるよ」と妻に言って家を出る。
 満員の通勤電車に揺られながら、ぼんやりと今朝の夢を思い出す。学生時代、あのまま小説を書き続けていれば、もしかしたらあの夢のように、いっぱしの作家になっていたのかも知らぬ。それに加えて、夢の中の、おれの妻。おそらく実年齢は現実のおれの妻より20も30も上なのだが、まるでモノが違う。実にいい女だったなあ。しかし、それにつけてもあの鼻の長い男。掛け軸のあれ、獏に違いあるまい。せっかく良い夢を見ていたのに食っちまうとは、なんてやつなのだ。
 おれは出社し、メールやらの雑務をてきぱきと片付ける。懸案だった事項がどうやら先方の思い違いとのことで、無事に軟着陸。加えて、予定されていた喫緊の案件が最終の納期ごと大幅にリスケ。午後になると思いがけず手が空いてしまった。
「どうだい? このところ忙しかったから、今日くらい早く帰ったら?」と上司が声を掛けてくる。
「はぁ、ではお言葉に甘えて、午後は有給を……」
「いや、もう中途半端な時間だし、うまいことやっとくよ」
「しかし……」と俺が躊躇うと、デスクのまわりの連中が「そうですよ、このところずっと働きづめだったし」「今日くらい、帰ってゆっくりしてくださいよ」などと言ってくるので、おれはみなの厚意に甘えることにした。
 映画でも見ようかと思ったが、大したのがやってない。少し早いが帰宅することにした。おれはなんとなく妻を驚かせたくなり、連絡せずに黙って帰路に就く。
 こっそりと玄関扉の鍵を開け、中に入る。おや、誰もいない。この時間なら夕食の準備をしているかと思ったのだが。おれはリビングを出る。すると二階から何か物音が。ギシギシと軋むような音だ。不穏な影が頭をもたげる。おれは念のため、玄関に置いたゴルフバッグからドライバーを一本、ゆっくりと引き抜いて、そろりそろりと階段を登る。音はおれと妻の寝室から聞こえてくる。同時に、くぐもった女の嬌声。心臓がバクバクと速くなる。おれはドアレバーに手をかけ、静かに扉を開ける。
 ベットの上には、巨漢と言っていいだろう、白いのっぺりとした男の背中が見える。何かに覆いかぶさっている。その男の体の下から、聞きなれた妻の喘ぎ声。いや、普段聞いているものより幾分甲高いのではないか。男が腰を打ち付け、びくりと大きく痙攣すると、その体の下から、ダウンタウン・浜田雅功を彷彿とさせる声で「結果発ッ表ォ────!」の「ォ────!」の部分のような、ひと際大きな嬌声がする。
 おれは発作的にドライバーを振りかぶり、その男の後頭部めがけ力いっぱい振り下ろす。どかっ。男がうっと呻き、ベットの上でぐったりとうつぶせになる。おれの怒りは収まらず、二度、三度、四度と立て続けにドライバーを振り下ろす。ごっ、かこっ、どちっ、どちゅっ。男の禿げ上がった後頭部が血みどろになったところで、ようやくおれは我に返る。肩で荒い息。男の肩を掴み、乱暴に転がす。その拍子に男はベットから床に落ちる。
 男の顔が見えた。その男は……おれ。おれじゃあないか。既に息絶えた、おれのどんよりと曇った、焦点の合わぬ目が、ドライバーを持ち、おれを見下ろすおれを写している。おれは続いてベットの上の妻を見る。その頭部は脂ぎって頭髪は禿げ上がり目は小さくて唇はやたら分厚い。顔にも首にも乳房・腹にも、恐らくは下半身にも、たっぷたぷの贅肉がついている。そしてその鼻はぶよっと膨れ上がり、べろりんと象のように長い。それが乳房を通り過ぎ腹のあたりまで伸びているのだ。こいつは妻ではない。誰だ?!
 おれはそいつの顔を見る。ニヤニヤとした、実に厭らしい笑み。

 そこでわたしはハッと目覚める。ああ寒い寒い。指や足の感覚がまるで無い。段ボールで組み上げた家の隙間から、冷たい風が入ってくる。骨がぎりぎり痛む。わたしは体を覆う毛布をぎゅっと抱き寄せ、ダンゴムシのようになって丸まる。
 しばらくして、人の気配がする。
「おおい、炊き出し、行かんのか?」と顔見知りの男が声を掛けてくる。ああそうか、今日は炊き出しだったな。わたしはもぞもぞ身体を起こす。
 ほかの顔なじみ三人と、炊き出しの順番を待ちながら、ぼんやりと今朝の夢を思い出す。それにしても酷い夢だ。未だにあのときの夢を見るなんて。発作的に間男を撲殺、その後わたしは刑に服した。再び娑婆に出てきたとき、わたしを待つものは誰もいなかった、ん? 待て待て、あれは夢の出来事では無かったのだろうか。確か、わたしは作家の夢を追い求めて脱サラ、しかして文名は容易にあがらず妻は家を出、そのまま身を持ち崩し、ここにやってきたのでは?
「会社を興して失敗したんとちゃうんか?」
「いや、おれは知人の連帯保証人になってと聞いたが……」
「ええ? この兄ちゃん、組の金を持ち逃げしたってこの前……」
 三人は顔を見合わせ、次いでわたしのほうを見る。わたしは何処か遠くを見つめる。懸命に思い出そうとするのだが、三人が言った、そのどれも真実のような気がするし、あるいはすべて夢の中の出来事のような気もする。しかし、今となってはもうどうでも良いような気もするのだ。
 ようやくわたしたちの順番がやってきたが、わたしの分だけ、やけにスープも具も少ない。隣の男が手にした容器には、フチまでたぷたぷ熱いスープがよそわれ、表面を突き破って肉やら野菜やらがこんもりと顔を覗かせている。他の二人も同様。わたしは自身の器を手に、配膳役に抗議しようとするのだが、並んでいる連中から「横入りするな!」「ちゃんと並べ!」といった怒号。わたしは仕方なく、再び列の最後尾に並び直す。
 長い時間をかけ再びわたしの順番がやってくる。配膳役の男は私の顔を見るなり、「なんだ、お兄さん、さっきも並んだでしょ? 困るなァ、今日、ウチは一人一杯までなんだよ」と冷たく突き放す。
「ちょっと待ってくれ。量が、わたしのぶんだけ明らかに少ないんだよ、ほら!」
「ほらって……あんたが飲んで食ったあとじゃあないのかい? まったく、図々しいにも……」
 男はニヤニヤと嗤う。
 わたしは思わず声を荒げかけるのだが、ふと気が付くと、わたしのまわりを、配膳役の男と同じような、ニヤニヤとした厭らしい嗤い方の男たちが取り囲んでいる。糞、何なのだ、こいつら。
 そいつらの頭部は脂ぎって頭髪は禿げ上がり目は小さくて唇はやたら分厚い。顔にも首にも乳房や腹や下半身にも、たっぷたぷの贅肉がついている。そしてその鼻は異様に膨らみ、べろりんと象のように長い。それが胸のあたりを通り過ぎ、腹のあたりまで伸びている。
 あっあっあっあっ。お前らっ。お前はっ、もしやっ。
 わたしは恐る恐る、
「……どうなる? わたしは、おれは、わしは……どこに……どこに目覚めるんだ……?」
 男たちは何も言わない。
 その顔には、ニヤニヤとした、実に厭らしい笑み。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?