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自分の納得に付き合うしかない。

わたしは割と
優等生タイプの人間だったので
厳しめの家庭や
決まりの多い学校教育の場面で
不適応を起こしたことは
ほぼほぼなかった。


サラリーマン時代も
お堅めの組織で働いていたが
そこまで窮屈さとか
働き辛さを感じることは
あまりなかった。


ただ、それ以前に
環境とは関係なく
そもそも心の中は
ずっと生き辛かった。


どこにいても
誰といても
いつも自分はどこかで間違っていて
自分のすべてが
足りていないように感じていた。


だからこそ、常に正解を探していた。


世の中には
自分の知らない正解があって
それにたどり着いていない自分は勉強不足で
そのために絶えず不安で


だから
たくさん知識を入れたり
情報を更新しなければいけないと思っていた。


思えばそれは、
受験勉強そのもので


勉強しない限りは
その情報に出会っていない限りは
回答し得ない「正解」を
探し回るような生き方だった。


渦中にいるときは
そこまではっきり
自覚してはいなかったけれど。


大人になって随分経っても
なんなら子どもを産み育てるようになっても


どこかの誰かの説得力のある言葉を聞いては
ああそうか、確かにそうだと
それを取り入れようとしてみるけれど
少し試しては飽き
少し試しては
別の誰かの言葉に引っ張られた。


昨今は、時代の後押しもあってか
「正解なんてどこにもない」という言葉が
溢れるようになっている。

自分の正解は自分の中にだけ、とか
選んだものを正解にしていくしかない、とか。


ああそうか、確かにそうだと
今度はまたそれを取り入れる。


でもある時思ったのだ。


「正解」というより「納得」だ。


確かに、本当に、
万人に適応できる正解なんてどこにもない。


でも、何を選んだら
あるいは、
何を選ばなかったら
わたしの心は「納得」するのか。


それはある。


そしてそれは確かに、
その人の中にしかない。


そして自分の心の納得は


自分で感じて
自分で考えて
自分で決める。


・・・という道程を、経るしかない。


言葉選びや言い回しが多少違うだけで
言ってることは
どこかの誰かが伝えてくれきた内容と
きっと違わない。


でもそれを自分の言葉に変換したり
自分の感覚に落とし込めた時
わたしの心が「納得」したの。


その時初めて、その考えは
わたしのものになる。


やはり
自分の納得に付き合うしか、ないんだね。






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