【映画】「アプローズ、アプローズ! 囚人たちの大舞台」感想・レビュー・解説

これは面白い映画だったなぁ。しかも、映画の結末まで含めて、これが「実話を基にしている」ってのが凄い。「良い話」という括り方で簡単にまとめられない物語ではあるが、「良い話」と受け取りたくなってしまう物語だ。

実話が基になっているからこそ、細部に余白がある。「どうしてなのか分からない」という要素が含まれているのだ。そして、だから良いのだと思う。

この映画の最大のポイントは、サミュエル・ベケットが書いた戯曲『ゴドーを待ちながら』だろう。サミュエル・ベケットは映画の中で、「20世紀の偉大な劇作家」と紹介される。僕は『ゴドーを待ちながら』の演劇を観たこともないし、読んだこともない。ざっくり、「全然待ち合わせにやってこないゴドーを、みんなで待つ話」という程度の知識しかないが、正直、映画でもその程度の理解のまま内容が掴めるように作られている。

主人公の「売れない役者」であるエチエンヌは、ひょんな成り行きから、刑務所で演劇を教えることになった。刑務所長が尽力し、刑務所内で文化事業を行う許可を取り付けたそうで、2週間後にその発表が迫っている。エチエンヌは、とりあえず何でもいいから形にしてと言われ、5人の囚人を使って「演劇らしきもの」をやらせた。

無事発表が終わった後、エチエンヌはふと思いつく。劇場を経営している友人に頼み込んで、休演にしている月曜日を1日だけ貸してくれと頼み込んだのだ。彼は考えた。ここまで演劇を教えてきた5人と一緒に、『ゴドーを待ちながら』をやろう、と。

ここにはエチエンヌの2つの思惑がある。

1つは、「囚人は『待つ』存在である」という彼なりの捉え方がある。囚人たちも、「いつも待ってばかりだ」みたいなことを口にする。面会、食事、清掃……。「待つこと」が日常の中に組み込まれている彼らが、「待つこと」がメインで描かれる『ゴドーを待ちながら』を演じることは、リアリティを高めるのではないか、と考えたのだ。

そしてもう1つは、エチエンヌ自身が『ゴドーを待ちながら』に囚われているという点にある。

彼は、劇場を経営しているステファンと同じ芸術院を卒業した。劇場経営という順調な仕事をしているステファンと違い、俳優の道を選んだエチエンヌには3年間も仕事がない。恐らく別居しているのだろう妻も舞台役者であり、どうやらハマり役を得て活躍しているそうだ。時々会う娘からも、心配なのかなんなのか分からないような視線を向けられる。

エチエンヌはかつて、『ゴドーを待ちながら』の役者として舞台に立ったことがある。演劇の世界のことは詳しくないが、恐らく『ゴドーを待ちながら』は舞台役者にとってはかなり大きな存在なのだと思う。「かつて『ゴドーを待ちながら』を演じたことがある」という記憶に、エチエンヌはある意味で縛られていると言っていいだろう。

エチエンヌはステファンに、半年後の公演を約束する。エチエンヌは刑務所に通い、練習時間を早く切り上げさせようとする刑務官や、非協力的な刑務所長などと孤軍奮闘しながら、演技指導を続ける。5人の役者たちにも様々なトラブルが起こり、一筋縄ではいかない。しかし、ようやく公演の日を迎え……。

という物語だ。

この映画の予告を映画館で何度も観る機会があったのだが、最後に、

【ラスト20分。感動で、あなたはもう席を立てない!】

と表示される。

普段僕は、こういう「煽り文句」が好きではない。観る時のハードルが無駄に上がるだけだし、かなり上手くやらないと逆効果であることが多いからだ。

しかし今回は、かなり上手くいっていると言っていいだろう。正直、良い意味で裏切られたというか、なるほどそうなるのか、と感じた。そして、まさにその展開こそが「実話」だというのだから驚きだ。

映画の最後で、「1986年にスウェーデンで起こった実話を基にしている」と表記がされた後でさらに、「この実話を基にした演劇が、ヨーロッパ各地で行われている」とも説明された。

そう考えると、ヨーロッパにおいては、この物語(あるいは、元となる実話)はそれなりに知られている話なのかもしれない。そうだとすれば、先程の「ラスト20分。感動で、あなたはもう席を立てない!」という煽りはあまり良い効果を生まないだろう。

そして恐らく、日本では、この話はさほど知られていないに違いない。だからこそ、先の煽りが効果的に機能することになる。僕の感想ではラストの展開には触れない。たぶんこれは、ラストの展開を知らずに観た方がいい映画だと思う。

面白いのは、1986年当時まだ存命だったサミュエル・ベケットの反応だ。彼は、スウェーデンで起こった出来事を耳にして、こう言ったそうだ。

【私の戯曲に起こった、最も素晴らしい出来事だ】

確かにそう言いたくもなるだろう。ホントに、「神さまが脚本を書いたんじゃないか」と感じるほど、出来過ぎにも出来すぎな顛末である。

物語全体は、思ったほど起伏はない。「刑務所を舞台に、不条理劇として有名な『ゴドーを待ちながら』を囚人に演じさせる」という設定だけ知れば、あらゆることが起こってもおかしくはない。しかし、漠然と想像していたような「囚人同士の争い」や「ボイコット」などは、思ったほど描かれなかった。

それよりも映画の中で強く押し出されるのは、「囚人たちの現実」だ。もちろん大前提として、彼らは犯罪者であり、ルールに則って刑罰が定められ、刑期を満了しなければならない立場にいる。それがすべてにおける大前提だ。映画では、どの囚人がどんな罪を犯したのか具体的に触れられないが(公式HPには書かれている)、当たり前だが被害者はどんな事件にも存在するし、いわゆる「凶悪犯罪」で捕まっている者もいる。

だから、どれだけ彼らが「演劇」という舞台で輝こうが、「役者」以前に「囚人」なのであり、「囚人」としての制約に強く縛られることは仕方ないことだ。

そのことを理解しているからこそ、どう受け取るのが正しいのか悩ましい描写もいくつかあった。

映画のラストに触れないために、ぼやぼやっと書くが、彼らはきっと、あの場面でああいう展開にならなければ、ああいう行動をすることはなかっただろう。映画を観終えた者は、それまでの描写を振り返り、「あれさえなければ……」と感じるのではないかと思う。もちろん、そこのポイントで何かが違っていても、ラストの展開は変わらなかったかもしれないが、映画全体をなんとなく「良い話」と捉えたくなってしまうこともあり、「あそこが違っていれば、ラストも違っていたはず」と信じたくなってしまう。

映画では、「舞台で喝采(アプローズ)を浴びる囚人」と、「刑務所に戻り全身検査を受ける囚人」の描写が繰り返し交互に映し出される。「全身検査」とは、映画を観た限りの僕の解釈では、「刑務所外に出た囚人が一律で受けなければならないと定められている、全身裸になって行われる身体検査」のことだと思う。彼らは、役者として舞台上で輝く一方で、刑務所では劣悪な扱いを受ける。

もちろん、それは「囚人」である以上仕方のないことだ。

ただ、「外の世界を知ってしまった」からこそ耐えられなくなるという気持ちも分からないではない。しかも彼らが知った「外の世界」は、普通の人間が経験するようなものではない。つい半年前まで演技などしたこともない素人が、舞台上で喝采を浴びているのだ。そんな経験をしてしまえば、どれだけ自分が「囚人」であると理解していても、「外の世界」とのギャップに打ちのめされてしまうだろう。

【ルールを守ってもクソ扱い】

ある囚人がこんな風に吐き捨てるように言うのだが、確かに彼らの視点に立てば、そう言いたくもなるだろう。

ここには結局のところ、「更生」に対する考え方の差異が存在するのだと思う。

法律やルールや刑務所の存在などを一旦すべて忘れて、原理的に考えた場合、人間はいつなんどきでも「更生」する機会を持つことができると思う。それこそ、『ゴドーを待ちながら』に関わった彼らは、そんな機会を得たと言っていいだろうし、彼ら自身を変えるために彼らは相当に努力をした。

つまり、そのことによって彼らは、「自分たちは今までの自分ではない」という「更生」の意識を抱いたのだと思う。

一方、法律やルールや世論は、彼らの「内面」など知りようがない。特に、犯罪者自身が「俺は変わった!」と強弁したところで、それを信じるのは難しい。だから、「法律が定めた期間を経たら『更生』したということにしましょう」という、客観的な基準で物事を進めるしかない。

このすれ違いが、大きな溝を生んだのだと思う。

刑務所が文化事業に取り組むことは良いことだと思う。しかしやはり人間は、「誰かに認められたい」と考える生き物だ。演劇に限らず、何か文化事業に取り組んだ際に、その努力を評価する仕組みも同時に導入しなければ、結局上述のようなすれ違いが生まれ、良い結果に結びつかないこともあるだろう。

そんなことも考えさせられる作品だった。

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