詩のたね ─鎌倉ヒルダ先生の想い出─
鎌倉ヒルダ先生(2018年6月14日逝去。享年91歳)には、わたしがタイに渡った小学四年の三学期から五年生までの一年半、タイ国日本人学校で担任していただきました。
教育熱心とはいえ、クラシック音楽にはさしたる興味のない両親に育てられたわたしが大のクラシック好きになったのは、ひとえに鎌倉先生のおかげでした。
母は女学校時代の旧友である鎌倉先生にタイのバンコックで再会するや、狂喜のあまりピアノを買って息子にピアノを習わせることを思いつきました。
ご存じのようにピアノは早期教育が原則ですから、すでにトウの立っていたわたしにとってピアノはヨーロッパ中世の拷問器具とさしたる変わりがありませんでした。
最近は使われなくなったらしいですが、当時の鉄板教則本であるバイエルから始めて、なんとかブルグミューラーに到達しましたが、これまた子供心にもツマラナイ曲ばかりで、幼児からピアノを始めていた同級生に訊いたら、彼はメンデルスゾーンが上手く弾けなくてトカどうのこうのと宣うているではありませんか。
あまりの落差に自分が情けなかったです。
しかし毎週、確実にその日が来ると、意気揚々と鎌倉先生はわが家にやってきて、わたしはピアノの前に座らされました。
鎌倉先生は小学校の担任でもありますから、学校でのわたしの失敗談はたちどころに母に告げられ、鎌倉先生が帰られたあと、母にコンコンと説教され、つまり鎌倉先生はわたしにとって災厄の使者以外の何者でもありませんでした。
そんな鎌倉先生があるとき、さり気なくショパンのレコードをくださったのです。
なんの期待もなくそのレコードを聴きはじめたわたしでしたが、一発でハマってしまいました。
音楽によって魂を激しく揺さぶられるという初めての体験でした。
わたしは何度もそのレコードを聴きなおして、その日のうちに熱烈なクラシック・ファンになりおおせていたのでした。
感激したわりにはそのショパンの演奏者の名前を憶えていません。
当時のわたしには、演奏者によって同じ曲がまったく違うものに聴こえるという認識はまだありませんでした。
ベートーベン、ブラームスと、レコード店に行ってはジャケ買いしてきて、部屋にこもって一日中聴き惚(ほう)けていました。
レコードを買い漁るにつれ、演奏者と指揮者によって曲の印象が変わることもしだいにわかってきました。
小学六年のとき、日本から転校してきたばかりの級友とクラシック談義をしていて、わたしは得意気に「カラジャン」のことを語ったのですが、彼に「カラヤン」ではないかと指摘されて大恥をかきました。
わたしは少年特有の秘密主義で、クラシックを死ぬほど好きになりながらも鎌倉先生には内緒にしていました。
告白したとたん、「さあ、これからは心を入れかえて一所懸命ピアノの練習をしましょうね!」と言われるのが死ぬほど恐ろしかったからです。
その後、鎌倉先生と顔をあわせても、わたしは何食わぬ顔でピアノにむかい、相変わらず練習していないので叱られつづけ、しかも、あるときなどは、そのころ熱中していたドッジボールのしすぎで疲れ果てていたせいもあって、ピアノを弾きながら居眠りしたあげく、こともあろうか鼻水を鍵盤にたらしてしまったのでした。
寝ぼけ眼で視ていると、鎌倉先生は顔をしかめながらも、黙ってレースのハンカチを取りだして鍵盤をふいてくださいました。
わたしは罪悪感にとらわれたものの、小言を言われるのがいやさに、そのまま寝ぼけたふりをしてピアノを弾きつづけたのでした。
ブルグミューラーがどうにか終わりかけたころ、わたしはそのなかの楽曲『小さな嘆き』に出逢いました。
それまでは、弾かされるどの曲も嫌悪と軽蔑の対象でしかありませんでしたが、この曲だけは別物でした。
中学一年の二学期が終わり、わたしは日本に帰ることになってピアノからも解放されましたが、どういうわけか『小さな嘆き』だけはおりにふれ弾きつづけてきました。
「大きな嘆き」でないところが気に入っていたようです。
誰もが体験するように、わたしもそれなりに人生の苦労を積み重ねて今日にいたるわけですが、生きづまったときはいつもこの『小さな嘆き』を弾いてヘタレの自分を鼓舞していました。
いま自分が直面している困難など「小さな嘆き」にすぎないのだと自分に言い聞かせながらピアノを弾いていました。
数年前にオンボロピアノは売りはらってしまいましたので拙宅にはもうピアノはありませんが、こうしておのれの人生を振りかえってみると、いつも大失敗をくりかえしては壁にぶつかってしまい、おそらく鎌倉先生のお弟子さんのなかで最凶の劣等生であったこのわたしが、なんとか自殺もせず、犯罪者にもならず(チト大げさか)、こんなに立派な大人に(少なくとも体格的には)なれたのは、ひとえに『小さな嘆き』という楽曲とクラシック音楽、つまりは鎌倉先生との出逢いのおかげであったと心から感謝しております。
タイで初めて鎌倉先生とお会いしたころから、将来は小説家になるんだとすでに心に決めていたと記憶しております。
小説家としては二十代で商業誌デビューを果たしたものの、鳴かず飛ばずの作品ばかりで、筆一本で生活するのは、なかなか厳しいものがありました。
長年の編集者生活ののち還暦を過ぎて、わたしは作家に転職することを決意しました。
どういうわけだか、詩は職業選択の対象として考えたことがありませんでした。
晩年の鎌倉先生が寝たきり状態となられ、お見舞いにご自宅をお訪ねしたとき、いまだに作家として自立できていないという心の奥底のくすぶりもあってか、鎌倉先生に「H君(本名)は、これからどんな人生を送りたいの?」と訊かれ、思わず「宮沢賢治のような詩を書きたいです」と答えていたのでした。
我ながらトンデモナイことを口走ってしまったものだと後悔しつつ固唾をのんで鎌倉先生の顔をのぞきこんでおりますと、先生はしばらくの間、唇を噛みしめて考えてらっしゃいましたが、「そうね、H君だったら書けるかもしれないね」と答えてくださったのです。
まったく予想外のご返事でした。
鎌倉先生はその場かぎりの思いつきを口にするような方ではありませんでしたから、わたしは深呼吸をしながら、その言葉を思いきり胸の奥に吸い込むようにして心に刻んだのでした。
たしかに書きためた詩の類はウンザリするほどありましたので、「宮沢賢治のような詩」はともかく、とりあえずマシだと思うやつを毎日少しずつ選んで推敲する作業を始めたのでした。
鎌倉先生には、決して優しいとは言えない、どちらかといえば辛辣な小言ばかり言われつづけていたような気がしますが、最期のお言葉は、あの日以来、あたかも銛のように深々とわたしの心臓に突き刺さったままです。
たぶん、そのせいで鎌倉先生のことを思いだすたびに胸が疼くのでしょう。
と同時に鎌倉先生の最期のお言葉は、わたしの詩人としての原動力のひとつになっていることは間違いありません。
わたしは「先生」という言葉が大嫌いで、編集者時代も作家の方を「先生」とお呼びしたことはありません。
「鎌倉ヒルダ先生」だけは特別な存在というわけです。
illustration:© Leszek Bujnowsk
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