「Not enjoy」(ベランダ)

 午前2時、ホステスが、他のホステスとの髪の引っ張り合いの、くんずほぐれつの喧嘩をした後に、憤怒と後悔の念をまといながらハイヒールを手に持って雨のなかうつむいてヒモの男が待っているマンションに帰る。そんな時間だ。東京都あきる野市、小さな雑居ビルの4階に位置する「Not enjoy」はまだ煌々と窓から光が刺している。偏差値32、私立表面張力ギリギリ大学の飲みサー兼テニサーの幹事長を務める俺はじっと看板版を見つめた。昨日も朝まで呑んで17時まで寝ていたので全然眠くない。意を決して機械音の大きい狭いエレベーターに乗り、「Not enjoy」の扉の前まで来た。扉にはポスターが張ってあり「陽キャに疲れたあなた。勇気をだして扉を開けて」と書いてある。勢いよく扉を開けるとそこには一人の中年男性と同世代だと思われる二人の男と女が全員肩をすぼめるようにしてスマホを弄っていた。その空間のあまりの空気の重さと悲壮感に気後れしそうになったが、講師であろう中年男性に声をかけた。

「あのう、電話で体験講座を予約した山本健太郎です!」

中年男性は一瞥すると目を合わさずにか細い声で

「声が大きい」

とスマホを弄りながらか細い声で答えた。
すいません。

「すぐ謝るな、ちょっとフリーズしてから斜め15度ぐらいに頭を下げるだけでいい、君も陰キャになりたいんだろう」

「はい」

「髪型、肌の艶、服装、喋り方、君は相当陽キャなようだ、陰キャへの道のりには苦労すると思うが覚悟はあるかい?」

マスクをしている上に声が小さすぎて8割聞き取れなかったが俺は頭を少し下げた。

「それでいい、はいっ!って大きな返事をするのではなく陰キャは最小限のボディランゲージで意思疎通を図るんだ」

これもまた8割聞き取れなかったが、もう一度頭を下げた。

 陰キャに憧れ出したのは一か月前の、私立お水飲み放題女子大との合コンの席だった。理由は人数合わせで半ば強制的にメンツに組み込まれた田沼が異常にモテたのだ。田沼は大学の講義でも一番前の席に座りラノベをひたすら読んでいる同じゼミの奴で、顔はしもぶくれしていて瞼が厚い、口周りにニキビを絶やさない肥満の生粋の陰キャだった。しかし、何をどう間違ったらそうなったのか分からないが、回数こそ少ないが絶妙なタイミングで口語体ではなく限りなく文語体で会話に入ってくる田沼は女子から「なんかミステリアス」「頭よさそう」「こんな人初めて」「ライン交換しようよ」「田沼君の隣の席がいいな」「今夜はずっと一緒にいたいな」「おっぱい揉んでいいよ」「片乳だけでも揉んでいいよ」「後日でもいいから揉んでいいよ」「QRコードから時間指定して後日いいから揉んでいいよ」などと言われていた。いつものように合コンでは人一倍道化を演じて盛り上げようとする俺だったが、女子達は田沼に夢中。完全敗北だった。田沼は異常にモテているのに常に冷静で、
「私は乳房を揉んで良いと言われたが、公共の場、いくら居酒屋という、いささか砕けた大衆の盛り場であろうと公序良俗に反することは良心の呵責に耐えかねる」
と言ってまた笑いを取っていた。




「もうすぐ先生が来ると思うよ」

中年男性が呟いた。こいつ講師じゃなかったのかよ。陰キャになりたい珍しいおじさんだった。席に着くやいなや、これでもかと大きな音を立てて教室前方の扉が開いた。

「岡崎、また後ろの席座ってんじゃねえよ!後ろの席は陽キャの場所だ。大学の講義でも、修学旅行のバスでも陽キャは後ろの席、陰キャは一番前だって教えただろうが!バスの一番前のタイヤ部分の上の席で岩の裏を裏返した時のダンゴ虫みたいに声を殺して丸まってろ!」

岡崎と呼ばれた中年男性はそそくさと一番前の俺と同世代ぐらいの2人がいる一番前の席に移動した。

「すいませんでした!」

久々に大きな声を出したのか岡崎の声は裏返り天井に吸い込まれていった。

「デカい声だすな!クライマックスか!」

講師が𠮟責した。講師はまるで擬態する昆虫のような濃い緑のスーツで坊主頭、銀縁眼鏡をかけていた。とんでもない所に来てしまった思いが去来し、これから始まるスリリングな展開が僕の心臓を痒くさせた。ここで一人称が俺から僕になったのは講師の剣幕に少し弱気になったからだ。

「お前が体験の奴か、一番前に座れ」

講師は僕を指さした。首から下げている名札には、車田メンチと書いてあった。

「毎週言っているが本来、社会的に有利とされている陽キャなのに好んで陰キャになろうとするド変態のお前らは気色が悪いことを肝に銘じろ。それでも陰キャになりたいなら自分のこれまでの人生を捨てる覚悟で臨め。これは講義じゃない調教だ。それじゃあ先週のお前らの生活の振り返りから始める」

両隣に座っていた二人がパソコンを開き、教卓にプロジェクターを設置し、ホワイトボートをよけて、吊り下げ式のスクリーンを下した。講師はスクリーンが見えるように椅子を横に移動させ、どっかと足を組んで座った。

「じゃあお前から」

車田は男子を指さした。今まで後ろ姿しか見えなかったが、よくよく顔を見てみると亀梨和也に似ている男前だった。

「それでは僕の報告を始めます」

おどおどした様子で亀梨はパワーポイントをスクリーンに表示させた。

月曜日:大学で講義があったので1時間かけて電車に乗った。車中ドグラマグラを読むが理解できなくなったので、ユーチューブの工場でビスが生産されてく動画をみる。講義中も同じような工場生産の過程がわかる動画をみる。誰とも話さなかった。


火曜日:一人で散歩していると最寄り駅から家までの近道を見つける。時間を測ってみたが大してかわらなかった。途中で雨が降ってきてちょっと濡れた。誰とも話さなかった。


水曜日:大学で講義。寝ていると教授が「寝るんなら出ていきなさい」と叱るが最前列の自分じゃなくて、後ろの陽キャだった。


木曜日:Xの裏アカウントから同じゼミで好きな子の裏アカウントを特定。「辛気臭い」と自分の悪口が書かれていたが、興奮した。誰とも話さなかった。


金曜日:些細なことから親と喧嘩。「家に火ぃつけてやる」と脅し、母親が泣いてしまう。父親は干渉せず。


土曜日:作っていた姫路城のプラモデルが飼っている猫に壊される。どこに怒りを放出すればよいのか分からず、家の周りを走った。運動不足で夜足をつるが、普段から声を出さないのでか細いのしか出ず、助けを求められなかった。

車田は亀梨を立たせた。眼鏡の奥からはぎょろぎょろと眼球を移動させて焦点があっておらず、不敵な笑みを浮かべていた。

「おい、なんだよ木曜の火ぃつけてやるって。真の陰キャはなあ3軒隣の室外機の音ぐらい気にならないように、いやそれ以下、10軒となりのニキビ面の中学生が自転車のカギの引き抜くときのように気にならないような空気でいろ!家庭に荒波立てんじゃんねえ!内弁慶が一番キモいんだよ!」

ちいさな声で、はいと言った亀梨は15度ぐらいのお辞儀をして座った。

「次、お前!」

車田は女子を顎で指した。美少女でパッチギの時の沢尻エリカに似ていた。

「私の一週間です」

沢尻の声は亀梨の声より小さかった。

月曜日:大学の講義なかったので、家でひたすら鬼滅の刃の同人BL漫画を描いていた。母からの旅行に行って来たとの写真を添えた長文ラインに「わかりました」と、一言支離滅裂な返事を送る。


火曜日:大学の講義をサボって鬼滅の刃の同人BL漫画を描く。なかなか筆が進まず。むしゃくしゃしてスクワットをやるが15回で限界を迎える。夜松屋でデミグラスハンバーグを頼もうとするが陰キャがデミグラスとは如何なものかと思って牛飯を食べる。


水曜日:大学の授業をサボって鬼滅の刃の同人BL漫画を描く。コミケまでに間に合わないかもしれないと焦るが、そもそもコミケに出す予定も無いし、友達もいない事に気が付く。夜松屋でデミグラスハンバーグを、勇気を出して食べてみるが、身体が受け付けないのかトイレで小ゲロを吐く。


木曜:大学で必修科目の講義。ホームルームみたいなものなのでみんな和気あいあいとしている、隅で縮こまっていると男の子から、ライン交換しようよ、と言われる。いまスマホの充電がないと嘘をついて逃げ切ろうとするが、さっきスマホさわってたじゃんと、言われパニックになり教室飛び出す。もうこの講義には出られない。留年確定。


金曜日:講義がないのでひたすら鬼滅の刃の同人BL漫画を描く。描いている途中、自分の漫画にムラムラしてきて、アマゾンで電マを購入。届くのが待ち遠しくて嬉しくて、小躍りするが、親の仕送りで何てもの買っているのだと自己嫌悪にさいなまれて夜まで三角座りして泣く。


土曜日:鬼滅の刃のエロ同人BLエロ同人漫画を描く。疲れてきたので気晴らしに外でも出ようかと思ったら置き配で頼んでおいた昨日の電マが玄関先にあるのを発見する。使ってみた。すごい気持ちよかった。親の顔など忘れた。

車田は亀梨と同じく沢尻を立たせた。
「描いている同人漫画はどうするつもりだ?」

「コミケに出せないので、そのまま私のパソコンの中で眠り続けることになります」

「バカタレ!今日帰ったら今すぐSNSに投稿しろ!真の陰キャはなぁ、承認欲求だけは人一倍強いんだよ!匿名で出せ!それでバズってパソコンの光しかない暗い部屋でほくそ笑んでろ!でもバスっても調子に乗って続編描くんじゃねぇぞ!一回こっきりの大バズリで潔くその分野からは撤退しろ。カリスマになろうとするな!一月後には誰の脳内の中にも残っていない、遠い彼方に忘れさられろ。遠い、遠いだ。都内からの直行便バスで8時間かけて草津温泉行くぐらいな!」

沢尻は目に涙を浮かべながら会釈をして席に座った。二人が一週間の振り返りをする前よりもいっそう重苦しい空気が教室に包まれているような気がする。僕は昔お婆ちゃんの家に泊まりに行ったときの焚き過ぎた石油ストーブのある部屋を思い出した。

「じゃあ次」

車田は岡崎の顔も見ずに右膝をぼりぼり掻き、左足は貧乏ゆすりをしている。

「それでは私の一週間を発表します。」

月曜日:会社に出勤。先輩に書類のコピーを頼まれ、コピーしていると「トナーが足りません」の表示が。インクリボンを交換しようとするが、予備のインクの場所が分からないので会社中を探し回る。誰かに聞けばいいのだが勇気が出ない。見つかったのは午後16時。仕事が遅いと先輩にキレられる。


火曜日:会社に出勤。休憩室で昼食を食べて終えると、女性社員が4人ほど入ってきて雑談を始める。寝たふりして聞いていたが、最近のドラマや芸能人の話で全く理解できなかった。そういえば家にテレビもラジオもない事を思い出す。スマホのニュースも見ずに、「Touch the Number」という1から25までのランダムな数字のマスを出来るだけ素早くタップするゲームばかりやっていたせいだ。


水曜日:有給休暇を利用して地下アイドルのライブと握手会へ。終わった後、会場に推しの娘の等身大パネルがあるのに気が付く。ドキドキしながら近づいて抱きしめようかと思ったが理性で踏みとどまる。パネルとどうしてもツーショット写真を撮りたかったので近くにいた人に写真を頼もうとするが勇気が出ない。しかし根性を出して頼んでみるとすんなりOKしてもらえた。こういう時だけ謎の勇気が出る。


木曜日:昨日ライブではしゃぎ過ぎたのか写真で勇気を振り絞りすぎたのか分からないが、38度の発熱。会社を休む。解熱剤を飲み、昨日の等身大パネルのツーショット写真を見ながらなんとか耐える。トイレに行くと小便ではなく膿が出ていることに気が付く。急いで泌尿器科を受診。クラミジアと診断される。2週間前に行った45分8000円の川崎のソープが原因だ。


金曜日:会社が終わった後部署での飲み会に参加。

金曜日のスライドが出た瞬間、いつの間に持っていたのか車田は竹刀を床に力強く叩いた。眼鏡を放り投げ、音もなく歩き岡崎の喉元に竹刀の先端を持って行った。

「なぜ、飲み会などいった?」

「ここに通うまで宴会部長出来なポジションだったので、今回も幹事を断れなかったんです。」

「正直に言え、飲み会ではどんな振る舞いをした?」

「最初は席の端っこでおとなしくしていましたが・・・」

「が?」

「酒が入るともとに戻ってしまい、10分ほどの漫談めいたエピソードトークをしたり、割りばしで簡単なマジックを披露したり、後輩の女の子にラインをさりげなく聞いてしまいまいました。身体もすこし触りました。」

竹刀は岡崎の喉元を突き、床に倒れこんだ。

「俺が、いつそんなこと教えた!?真の陰キャになりたいんだろう!情けない!!」

岡崎は床に倒れ込みながら、手の外側を眼頭にあて流れ出る涙を小学生のように止めようとしていた。一方車田も目に涙を浮かべている。

「二次会は行ったのか」

車田は竹刀で岡崎の尻を叩きながら言った。こくんと頷いた岡崎をみて竹刀を放り投なげ、うなだれるようにしてその場にしゃがみこんだ。亀梨と沢尻は何事も無いようにまっすぐ前を見つめている。

「カラオケか?」

岡崎は壊れたロボットのように何段階も首の角度を変えながらうなずいた。

「何歌ったんだ」

「モー娘。のハッピィ・・・ハッピーサマー・・・ウェディン・・・・グれす」

「バカタレ。陰キャは誰も知らない洋楽をもじもじ歌ってればいいと教えたばかりだろう」

諦観の目をした車田は床を見つめながら静かに諭した。

「同僚が結婚したばかりだったんれす」

岡崎の顔の下半分は滂沱の涙で濡れ散らかしており、鼻水がもう少しで口に入りそうになっている。数十分前の先輩面していた余裕の顔とは程遠いものになっていた。

「もういい、お前はあの二人と違ってもう43歳だ。性格を変えるのは遅すぎたようだな。お前には陰キャの資質はない。一年半通って少し矯正されたが、ちょっと気が弱くなって人見知りになった元陽キャに過ぎない。毎週言ってるが、この現代社会は陽キャの方が圧倒的に有利に働くように成り立っている。だから自分の陽キャの資質を恥じることはない。あきらめるのも一つの勇気だ。もうここには来ず、自分らしく生きるんだ。」

車田はうつむいている岡崎の背中を撫でた。泣いていた。岡崎はよろよろと教室から出ていき、ドアを開けると小さくこちらにお辞儀をして出ていった。沢尻はセーターについているカスを取り、亀梨はボールペンを分解しては組み立てていた。

「疲れた。今日の調教はこれで終わり。今から自習。陰ⅡAの35ページから46ページまで復習しておくように。5時には帰れよ。俺はもう帰る」

沢尻と亀梨は車田を凝視するのみだ。車田が教室を出ようとすると思い出したように言った。

「高橋」

高橋という名前の沢尻がびくっとして車田の方を見つめた。


「来週、使った電マ洗わずにもってこいよ」

「はい」

俺は来週もこの「Not enjoy」に来ようと思った。

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