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書店パトロール44 ホグワーツよりキャメロット

漫画本を購入ついでに漫画コーナーの新刊の棚を眺める。
相変わらず、一体何冊の漫画がこの世には存在しているんだと、私はおののいたいた。
そして、その中の1冊(正確には2冊)に目を奪われる。
鈴木央の『ライジングインパクト』である。

あの、週刊少年ジャンプで、二回打ち切りを食らった伝説の漫画……。
その新装版である。そう、今年、ついにNetflixでアニメ化するのだ。

私はライパクが大好きであり、まぁ、それは、ちょうど連載時に小学生から中学生だったからだが、この鈴木央先生の漫画というのは、繊細で淡い感じの絵柄で、日本に西洋をドッキングさせたような世界観で、まぁ、簡単に言えばファンタジックな世界だったのである。私は猛烈に憧れた。とてつもなく、ハイカラーな作品だと思えたのだ。
誰もがホグワーツに憧れる時代があるものだ。それと同様、誰もがキャメロットに憧れる時代があるのだ。
まぁ、超ゴルフなので、その辺りは空想として楽しむのが吉だが、少年少女には突き刺さるものだ。そう、鈴木央先生の作品というのは、少女マンガめいた繊細さも兼ね備えていると同時、その『ドラゴンボール』偏愛ゆえの暴力的なまでのアクション描写にも定評がある、暴力的少女漫画なのかもしれなかった。
ライパクは、17巻のラストで主人公たちは大人になるわけだが、そこで、自分たちが子供だったこと、幼かったことを述懐する台詞がある。
重要な台詞であり、これはまさに、郷愁を誘う台詞だ。子どもたちの目線から見た世界であるから、魔的ゴルフが演じられるのかもしれないが、そこには少年期思春期の感情の迸りまでもが刻印されている。
この言葉一つで、物語、というものを、記憶と思い出、というものに昇華している。

このライパクは私は後に出た文庫本を持っているので、新装版はどうしようか悩むところだが、鈴木先生はもう15年以上昔、ファンレターを出したら返事を頂いたので、大好きな漫画家なのである。

その後の『ウルトラレッド』も、『ブリザードアクセル』も、『金剛番長』も、無論読んでいるし、『ちぐはぐラバーズ』だって読んでいる。
それに、ウルトラジャンブに掲載された読み切りも、わざわざ古本で購入して読んでいるので、まぁ、かなり好きな部類だ。

然し、今日は手持ちがない。私は涙ちょちょ切れる思いで、その場を離れ、
他の本を物色する。

美術書のコーナーには、これまた洒脱な宇野亞喜良の本がある。

2014年に発売されたクロニクルに、その後の10年の仕事を加えた増補版だ。5,400円。高いなぁ。でも、濃厚だし、これは買いだなぁ……。等と、そんなお金もないくせに、私はこれがある自分の家を想像する。何冊、一体何冊積読を増やすつもりでさぁ、あにい、そんな声が聴こえてくる。
私は幻聴を振り払い、進んでいく。
今後はこれは貴族の絵を楽しく勉強できる本である。薄く、手頃だ。タイトルを忘れたので、ここには書けない……。だが、私は貴族絵が好きだ。
何故なら私は精神的貴族であり、精神的やんごとなき御人おひとだからだ。
そんな私にはお誂え向きのこの本だが、まだ、ガウェインやランスロットの幻影がまだ脳裏に微笑んでいる。
新装版、文庫版、完全版。信じる者、と書いて信者、という字は儲、という字になる哀しい話は皆様御承知おきだが、まぁ、私も多分にその例には漏れない。が、私は現実を見つめる。財布にはそんな金はないのだ。

気を逸らす為に映画本コーナーへと逃げ込む。
うーん、いいなぁ、いいなぁ、映画本。と、丹波哲郎と目が合う。若かりし頃の丹波哲郎、いい男である。

丹波哲郎の評伝か……。なかなか太い、いい本だ。やはり、評伝はいい。ぶっちゃけ、作者本人の作品よりいいこともある。作品も大事だが、作者も大事なのだ。つまりは生き様。そんな丹波哲郎の横には、またしても伝説の男がいる。
『ゴダール/映画史』なる本である。

ダゴールか……、いや、ゴダールか。ゴダールでゴダール、なんつって、そんなこともあったけれども、私はゴダールには明るくない。以前、押井守は自著でやたらゴダールを褒めていたが、押井守の定義する監督の勝利条件として、次の映画を撮る(無論他人に金で)権利を確保し続けること、ってなことを書いていて、そんな中、ゴダールは常に映画を撮り続けている。
タイトルがいい。ゴダール・ソシアリスム、なんて、いい言葉だ。ソシアリズムとは社会主義、ということで、つまりは、ゴダールの社会主義、なんだろうか。と、思ったら、ソシアリスム、なので、シュルレアリスム、なのかもしれなかった。んげ。半ば伝説と化しているゴダールだが、実は、そんなに観られていない説もある。

ゴダールはやっぱり名前がいい。ジャン=リュック・ゴダール、なんて、すごくカッコいい名前じゃないか?ゴダールの映画には北野武も多大な影響を受けているそうだが、私はゴダールの良いファンではないので、その辺り詳しくないのだが、やはり、天才は天才にエフェクトを受けるのだろうか……。まぁ、編集においてのゴダール、なわけで、北野武も自らの映画は監督・脚本・そして編集が基本である。編集、こそ映画、であり、編集のないもの、は映画ではない、のかというとそうではない。のが、映画の難しいところ、というか、映画、とは、究極的には詩の視覚化であることを心得よ、その中で、監督ごとに詩作法が異なるに過ぎないのだ。

書店から帰ると、お家にDVDが届いている。先日購入したストローブ=ユイレの『アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記』が届く。


まぁ、ストローブ=ユイレなんて、私だって詳しくはない。が、これもまた詩人たちの作品、ということか。

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