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しょうもないで賞

GWである。

GWなので、空き時間に本を読んでいる。いや、本は常に読んでいるのだが。
今は吉田修一の『国宝』の上巻を読み進めている。読み進めてはいるが、この小説が藝術推奨文部科学大臣賞、中央公論文芸賞、の二つを授賞している、と識り、え!こんな雑な話運びの平易な文章、滑りまくりの講談調の文体で!?と衝撃を覚えている。

ものすごく、ものすごく歌舞伎の勉強をしたのだろう。それは伝わる。文章の端々から。けれども、識ったことや取材に囚われすぎて、説明口調がひどく、読んでいて白けてしまうことが多い。いや、こんな説明台詞は言わないだろう、そのように感じてしまう。
識っていることをあからさまに書きすぎるのは下品だ、識っていることを見せないことが奥ゆかしい文章を生む、という金言とは真逆の、お仕事小説などにありそうな書きすぎに辟易してしまう。

まぁ、四代目鴈治郎につきっきりで取材して、それらの世界を余すこと無く描きたかったのかもしれないが、その本領が発揮されるのは下巻だと思われるので、読まなければならない。

とにかく上巻はすごく雑な話運びと、いや、そうはならんやろ、という展開、内面が無さそうなご都合漫画キャラクターのオンパレードで、この小説はともかく、この賞二つがどれほどの凄さを持っているのか識らんが、本屋大賞にしろ、ちゃんと読んで作品に賞をあげているのか?と思わざるを得ない。
基本的には汎ゆる賞は販促なのであるから、まぁ売れそうな匂いがすれば、それはしょうがないことではあるが。

本が売れなくなっている、と言うが、まぁ娯楽が増えてるし、そらそやで、としか言えない。映画、スポーツ観戦、漫画、アニメーション、TVドラマ、音楽、演劇、SNS、旅行、アート、などなど、大量にある趣味の中で、本を読むなぞまぁ選択しないだろう。
だから本を売るために、芥川賞や直木賞だってそうなのであるから、それはいいとしても、何にしてもやり過ぎ、というのはよくない。なんでもほどほど、が一番であり、芥川賞も5年に、10回に一度受賞者を出す、くらいの感じでいいのだ。ダブル授賞、とか聞くと、いや、おかしやろ、と思うのだが、そういう意見に対しては、そもそも芥川賞は新人賞で大した賞ではない、などと、意味不明な自らを貶めるような反論があったりするが、そういうのはまぁ、緩慢な自殺であるから、もう少しちゃんと選んで、本当に良い小説、いい作品、良い作家を推すべきではあるまいか。それが推し活、なのではなかろうか。
そうじゃなきゃ、大宣伝してせっかく手にとってもらっても、ふーん、まぁ、こんなものか、じゃあもう今後この賞の小説はいいや、ってなってしまうではないか。

まぁ、文章を仕事、として食っていこう、藝術で食べていこう、という考え方は別段間違っていないが、その考えの危険性とは、最終的には腐敗に陥りやすいところで、その腐敗した組織、まぁ、藝術自体はいつまでも腐敗はしていない、腐敗するのは組織であり人間であって、腐敗する前は、ハート・オブ・ゴールドを持ってして藝術に生きよう、としているはずなのに、いつの間にか生活に追われて、小銭と立場の為だけに嘘までつくようになっちゃう、そうなりゃもう、あんたおしめえよ、ってなもんで、まぁ、私はそういう風に考えている。

そういえば、『国宝』は今週発売のスピリッツで漫画版も連載するという。宣伝に抜かりがない。








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