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受け取る勇気

『 寄付しようか?』
その一言に、心がザワっとした。

つい先日も、違う人から同じセリフを言われたが
うまく受けとめきれずに
うやむやに終わらせた。

受け取るのが恐い

お金が必要ないわけではない。
特に今は、生活をどう立て直すかが課題だし
断る理由なんて一ミリもない。

でも、何かしらを受け取るシチュエーションになると
なんだか抵抗感が出てきてしまい

受け取れなかったこと
受け取りを渋ったこと
うやむやにして受け取らなかったこと
本当に受け取ってもいいのか何度も確認したこと
恐さとか何かしらのマイナス感情と共に受け取ったこと
断るのが申し訳なくて受け取ったこと

が、山ほどある。

・対価としてのお金
・支援としてのお金
・ギフトとしての金(お小遣い、お年玉、結婚祝い、出産祝い、お礼)
・道端で配っているもの(チラシ、ポケットティッシュ、試供品)
・プレゼント
・何かをおごってもらうこと
・手伝い、フォロー
・褒められること
・心配
・愛
・優しさ
・気遣い など

相手や状況によってはありがたく頂戴する場合もあるし
以前に比べるとだいぶ受け取れるようになってきた。

例えば、「何か手伝いましょうか?」
と声をかけていただいたときは
ありがたく仕事をお願いできるようになった。
(まだまだ遠慮はあるが、
申し訳なさよりも感謝の方が上回る状態で頼めるようになったのは
大きな進歩!)

だがしかし
今朝の友人とのやりとりで
まだまだ受け取る恐怖が根深くここにあることに気がついた。


「受け取る」ことと「返す」ことはセットじゃない

恐怖の原因のひとつに
「受け取ったら返さなければならない」という
思い込みがあった。

子どもが低学年だったころ、仕事で帰宅が遅くなるときは
ママ友と子どもを預け合い
互いに負担を軽減していた時期がある。

よかったら預かるよ!という話がママ友から出たとき
お金を払ってベビーシッターに預けるのは構わないが
無償でママ友に預けることには大きな抵抗感があった。

自分が預けたのと同じ頻度でママ友の子どもを預かれる保証もないし
本来であればベビーシッターに預けたら報酬が発生するところを
友人だから、という理由で対価を払わないことに
大きなストレスを感じた。

その気持ちをママ友に正直に打ち明けたところ
彼女は彼女で、金銭が絡むことで気軽に助け合えない感じになるのは嫌だ、
と率直な気持ちを伝えてくれた。

色々と話し合った結果
私が預けたときは数千円の謝礼をお渡しし
ストックしたお金で一緒に飲もう、ということで決着がついた。

今では子どもも大きくなり預け合うことはなくなってきたが
彼女とはいい関係を継続できている。
(正直に伝えて本当によかった)

何かをしてもらったら
同等、もしくは受け取った以上の何かを返さなければならない。

そのプレッシャーが、受け取ることへの抵抗感を後押ししていた。

だが最近は
『あげたい人は、あげたくて、あげる、と言ってくれているのだから
何も考えずに素直に受け取ればいいのだ』
と理解することができた。

子ども預かるよ!別にお金はいらないよ!
→ フォローや愛情、優しさをあげるね!という彼女の気持ちを
素直にありがたく受け取り
お返しをしたくなったらすればよかったんだな、と。

あげるよ、と言ってくれている人の気持ちや考えを
・世話する子どもが一人増えるのに負担にならないわけがない
・いつもと違う生活になるのは大変だ
・自分が迎えに行くまで気を抜けずに申し訳ない
などと勝手に決めつけていたのかもしれない。

もしくは
『○○してあげたのに、お返しもしないなんて!』
と非難されたり嫌われるのが恐かったのかもしれない。
(前述したママ友はそんなことを言う人ではないが)

とにもかくにも
人はしたいようにする、という原則に気づき始めることができたおかげで
受け取る恐怖の原因のひとつが少しずつクリアできてきた。

だが、まだしぶとく残る、受け取ることへの抵抗感。

ここを掘り下げていこうと思うのだが
すでに見えているところとしては
自分に対する無価値観が
受け取りを妨げているのではないかと感じている。


私には、受け取る価値が無い

受け取ってはいけない、と感じるようになったきっかけ。
恐らく幼少期の体験が根っこにあるのではと思う。

家庭環境が複雑で、私はほぼほぼ祖母に育てられた。
祖母は口数が少なくあまり何も言わなかったが
大事にしてくれていたと思う。

ただ、親類が絡むと
私は邪魔なのだろうなと受けとめてしまうことがあった。

例えば、お正月。
長期休暇のときは、遠方に住んでいるいとこが
私の住む実家に帰省する風習になっていた。

年始の挨拶に訪れた親類がお年玉を取り出すと
祖母がそれに応対する。

普段は実家に住んではいないけれども内孫であるいとこの分は受け取るが
実家で暮らしているものの外孫である私(母親が出戻りだったため)のお年玉は拒否をする。

「外孫ですから、いいんですいらないです~」

親類が来るたびに、受け取る、受け取らないのやりとりを繰り返す。

中には「じゃあ」と一度は出したお年玉を引っ込める人もいるが
もし今、自分がひょっこり親類の前にあらわれてしまったら
本人が目の前にいる手前
親類はお年玉を仕舞うことができず、渡すの一択に
祖母としては、受け取るの一択になってしまうだろう。

次第に、来客があったときは
気配を消して
自分が家にいることに気づかれないように過ごすようになった。

この体験について
祖母を恨むような気持ちなどみじんもない。

もう何十年も前のことだし
祖母はとっくに他界しているし
私はもう子どもではないし
大人の事情もあったのだろうし
一度は断るのが美徳とか
遠慮深さが大事とされる時代だったのかもしれないし
やりとりを繰り広げた結果受け取ることもあったし
何でもないときに「ジュースでも買いなさい」とお小遣いをくださる親類もいたし
直接的に「受け取るな」と強く指導されてきたわけでもない。

ただ、お金を受け取れない理由を掘り下げると
いつもこの記憶が顔を出す。


人から助けを得てはいけない、という刷り込みもある。

子どものとき、誰か助けてくれ、と必死で救いを求めていた。
でも誰も手を差し伸べてくれず、世間というものに
子どもの私は失望した。

誰の手を借りずとも
ひとりで生き抜く力と強さを持とうと思ったし
いつか、見て見ぬ振りした大人たちを
ぎゃふんと言わせてやりたい、などと思ったりした。
(今は思っていない)

それもまた、自分には
助けを得る(受け取る)価値が無い、
という認識を強めてしまったのかもしれない。


お金、いっぱい欲しい!けど受け取れん…を解消していく

会社員と違って
収入の天井がないのが、個人事業主のいいところ!

お金いっぱい欲しい!ガンガン欲しい!

などという表面上の欲望とは裏腹に
お金を受け取る恐怖が行く手を阻む。

見積の作成や報酬の調整をするときなど
自分がいくらお金を受け取るのか?を思案するとき
抵抗感が強く出る。

冷静に、自分の内面と切り離して
業務の難易度や工数、キャパと合わせて算定すればいいのだろうが
なかなかそれが難しい。

その結果、いただく報酬以上の業務をやり過ぎてしまったり
無報酬で引き受けてしまうことが多くある。

業務をサービスするのでも無報酬でも、
やりたくてやっているのならいいのだろうが
私の場合は、単純に、恐いだけ。

ちょうだい!って言うのが恐い。
受け取るのも恐い。
恐怖からくる自己犠牲。
相手任せの責任放棄。


その行為は、自分を大事にできていないなと思う。


受け取り拒否をしているから
自分から自分に与えることもできない。
他者にも与えられていないのかもしれない。
循環が滞っている。


受け取ったら、どうなるのが恐いの?

自分を大事にしていくために
自分自身に問うてみる。

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