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金木犀の香りにつつまれて(小説)

あらすじ
介護ボランティアをしている高校2年生の澪と介護疲れから家を飛び出し、そして亡くなった陽菜との交わりを描いた物語です。題名に使用している「金木犀」には隠世という「あの世」を表す花言葉もあるため、澪と陽菜を結ぶものとして使用しています。
澪はどこにでもいる普通の高校生で、学校では友人の詩織と吹奏楽部に所属しています。物語は高校生活の日常からスタートします。途中で陽菜に焦点を当て介護の実態に迫り、陽菜が亡くなるまでのことを描いています。
後半は介護放棄し後悔している陽菜の気持ちが澪との交流により次第に解放され「あの世」に戻るまでを描いています。


<プロローグ>



 澪は高校2年生。極々平凡なお昼休みのひととき。校舎の4階のベランダの手すりに身を委ねて、眼下に広がる長閑な風景をぼんやりと眺めていた。                              

遠くには武甲山や両神山など秩父の山々が霞の中に浮かび、校舎の周辺には間もなく田植えのときを迎える水田が鏡のように光を放っている。下から昇ってくる空気は水田の冷気を帯び、山風と交じり合い、やや赤みを帯びた澪の頬を冷ましている。
この辺りは秋から春にかけての大麦、夏場には米作とほぼ一年中何かを栽培している県内でも有数の穀物地帯だ。
父親はサラリーマンという澪ではあるが、この土地に生まれ育ったことで、この風景は何よりの心の清涼剤となっている。
「澪」
 ゆったりした時間を引き裂くように突然、背後から声が響き、澪は一瞬、肩をピクッとさせた。ゆっくりと振り返った澪の眼前に、茶目っ気たっぷりに微笑んだ親友の詩織が立っている。風に揺れている長い髪の毛を左手で押さえながら、詩織は人差指で澪の額をツンと突いた。詩織もこの土地の生まれで、小中学校通じて、澪と同じクラスで家も近所だったことから、いつも一緒に遊んでいた。何処に行くにも一緒。親友と呼べる数少ない友達。

「 驚かさないでよ!詩織」           
澪は自分の時間を妨げられたことに抗議するかのように口を尖らせた。

「澪は本当にこの場所が好きだよね。時間があると、いつもここだもんね。でも、ここにいると確かにほっとするね」と言いながら、澪の肩を両手で揉み始めた。
澪は詩織の手を振りほどき、まだ不満そうに眉間に軽く皺寄せた。

「澪、そんな顔していないで・・・もう時間だよ。早く練習に行かなくっちゃ」

「わかった」
澪は詩織の急かす声に面倒くさそうな表情を浮べて、詩織の後を歩き始めた。部活の昼練があるのだ。二人とも吹奏楽部に所属し、コンクールが間近に迫ったため昼休みも練習に打ち込んでいた。
 校舎の一番隅に練習室はあるのだが、昼休みという限られた時間の中で練習するのには遠く、部員達は皆、廊下で練習していた。
澪と詩織は教室で楽しそうに話している女生徒の間を縫って、廊下へと出た。
 
 廊下には既に、多くの部員が練習を始めていた。澪もケースからフルートを取り出し、調音を始めた。その脇で詩織はクラリネットを吹き始めた。また、近くではサキソフォンの音が響き、少し離れてトランペットがメロディを奏でることで、全く音階もリズムもかみ合わない一種独特の不調和な音色が廊下に響き渡る。それでも耳に心地よく届けば我慢出来るのだが、雑音としか言いようのない音に教室の中で昼休みを過ごしていた生徒達は一様に顔をしかめた。だが、部活が盛んなこの学校では文句を言う者は誰もいなかった。
 当の本人達は一切気にする様子もなく、個人個人の練習に集中していた。30分程練習すると、終了のタイミングに合わせるかのように始業のチャイムが鳴った。澪と詩織は顔を見合わせた。

「もう終わってしまったの?あっという間だったね」
二人は他の部員と同じように急いで楽器を片付けて、慌てて小走りで教室に向かった。
 
午後の授業が始まった。部活でよほど疲れているのか教室のあちこちで欠伸をこらえていたり、コクリコクリと首を上げ下げしている姿が目につき始める。

「学校に勉強にきているのか、部活に来ているのか、これではわからないね」澪は詩織に囁いた。
クラブ活動が盛んな学校だけに、先生も仕方ないと思っているのか、注意することもなく、見て見ぬふりをする。これが毎日のように繰り返される。

 午後の3時間の授業が終わると部活の時間だ。それぞれ部活の準備に取り掛かる。吹奏楽部員達は今度は廊下ではなく、校舎の外れにある練習室に向かった。

「澪、早く行こう!・・・あっそうか、澪はボランティアの日だっけ」詩織は引っ張りかけた澪の手を離した。

「うん、ごめんね」
澪は軽く手を振って、練習室と反対の方向に向かい、4階の階段を小走りに降り始めた。
この校舎は5階建てで、最上級生の3年生が5階、2年生が4階、1年生が階というように級が上になるにつれて、階も上になる。昔の造りでエレベーターもなく、澪はコンコンという乾いた靴音を響かせながら下って行った。
下駄箱で急いで上履きを靴に履き替えると校門へと続く小道を歩いて行った。初夏といっても乾いた空気は心地よく、やわらかな風が髪を優しく撫でていく。
 
 澪がボランティアをしている施設は「朝日の郷」という主に高齢の人を対象とした養護施設だ。昨年から、自ら志願して、ボランティアを始めた。
施設は文字通りオレンジ色の外観をした3階建ての建物で澪の学校からも見える。
澪は正門でなく、裏門にまわった。学校の裏門から右手に折れて直線道路を20分程歩くと「朝日の郷」に着く。
畦道でないかと思えるような小道を、澪は水田を眺めながら、のんびりと歩いていった。
 すれ違う車は1台もない。初夏の空色を投影し、ブルーに染まった水面に、水草が薄緑のアクセントを与え、その美しいコントラストの中に、小さな影が見え隠れしている。メダカだ。小さな魚体をくねらせながら、群れをなして、天敵がいないのだろうか、ゆったりと泳いでいる。いくら眺めていても飽きることはない。その姿を無言のまま、澪は見つめていた。
たくさん、お友達がいていいね、と心の中で話かけていた。そして、幼い頃のことを思い出していた。
この季節になると、友達の詩織と畦道に立って、この様を眺めていたものだ。
その頃、もともとは畑であった水田に何故、メダカがいるのか?そのことが不思議でならなかった。

「詩織、メダカさんがいるよ」

「本当だ。メダカーの学校は川の~中、じゃあなくてえ、田んぼ~の中♪♪」

「でも、不思議だねえ。このメダカは何処から来たんだろうね?メダカは畑で取れるんだっけ?」

「畑メダカ、畑メダカ♪♪」と大声で歌っていた。その頃のことが懐かしい。
 メダカは見ていても飽きないな、と澪は思いながら、時間のたつのも忘れて、田んぼの中の世界に見入っていた。
よく観ると水の中にはメダカだけでなく、ミジンコだろうか、埃のように小さい生物が動き回っている。また、水面をアメンボウが優雅に泳いでいる。アメンボウさん元気?と声をかけてしまった澪は、思わず周りを見渡した。他人が見たら、さぞかし、おかしい人に見えるんだろうな、と澪は思って、照れ笑いした。
このまま、眺めていたいという気持ちと、行かなければという使命感にも似た思いの狭間で心が揺れながら、澪は施設に向かって歩き始めた。

<朝日の郷>


 幾つかの小さな集落を横に見ながら、15分程で「朝日の郷」に着き、木製のアーチ状の門をくぐった。ここからは若い欅の並木が続く。煉瓦を敷き詰めた幅3mに満たない小道で欅の枝が頭上で交差し、落ち着いた雰囲気を演出している。すぐに正面に入口が見えてきた。大きなガラス製の自動ドアが開き、茶色ベースの落ち着いた色彩のロビーが広がっていた。学校と違い、職員や入居者がゆっくりと移動していた。歩くことが不自由なのか、それとも事故防止のためか、入居者の大半は車椅子を利用していた。そのため、病院とも違う静寂さが、この広い空間を支配していた。 澪はこの雰囲気を壊さないように、足音を立てないように、そっと歩き、正面の受付に進んでいった。

「こんにちは」
澪は小さな声で、それでも微笑を浮べながら、職員に声をかけた。

「澪ちゃん、いらっしゃい」
大きな声が返ってきた。職員の佐々木千賀子だ。千賀子は介護福祉士の資格を持っているが、職員が足りないため受付の業務もこなしていた。その大きな声にロビーにいる人達が一斉に振り向いた。
千賀子は少し気まずそうに口に軽く手を当てた。元々おおらかな性格なのだろう。駄目だと分かっていながらも、ついつい大声で喋ってしまう。眼鏡をかけた丸顔が恥ずかしそうにしている。                    
「あ、そうそう、今日は悪いけど、お部屋の花を取り替えてくれないかしら。花は給水室に用意したから 」                     
「入居者のいる個室だけですか?」

「個室だけお願い。ロビーの花は替えたから」

「わかりました」 

「ごめんね、澪ちゃん」千賀子は申し訳なさそうに澪に手を合わせた。

普段ははそこまではしないのだが、職員不足のため、ボランティアの澪が代わりに花替えをした。
澪は花と取替え用の水が入ったカートを押して廊下を進んでいった。ロビーにさしかかると何処からともなく声がかかる」

「澪ちゃん 花をくれるの、ありがとうね」

この施設で最高齢となる門倉さんだ。年齢99歳、今年の10月がくれば100歳の大台に乗る。見た目は若々しく、とてもそうは見えない。元、銀行員ということだが、認知症の影響からか、仕事に出けると言い入口に向かうことが時々あるので、職員は目を離せずにいた。何時も目立つ場所にいるため、たまにしか来ない澪とも顔なじみになっている。

「門倉さん、こんにちはお元気ですか?」澪も挨拶した。

「ありがとう。元気元気。今から会社に出掛けるところなんだ。迎えを待っているのだが、迎えははまだ来ないのかな?」 

「遅いですねえ。もしかしたら会社は今日はお休みなのかもしれませんね」近くにいた職員が声をかける。

「奇麗な花をありがとうね」背の高い白髪の老人が続いた。
(顔を見たことはあるのだけれど誰だったかしら?)
澪は黙って、微笑むしかなかった。顔と名前が一致しないのだ。
澪は月に23回は来ているのだが、なかなか名前を覚えられない。頻繁に人の入れ替えがあるためだ。名前を覚えた頃に、姿が見えなくなってしまう人もいる。この施設でも常に50人程が入居待ち状態である。高齢の人が多いために、亡くなる人も多い。また、亡くなる人がいないと、入居待ちの人が入れない。一人亡くなると三日もせずに新しい人が入居する。悲しいことだが、これが現実なのだ。   

 入居者にとって入居期間が長い短いにかかわらず、ここが我が家ではある。週末になって家族が会いに来る人もいるが、入居以来一度も会いに来ない人もいる。それぞれ事情があるに違いないが、寂しく思っている人もいるに違いないと澪は思った。それに、ここが人生の終焉の場であるという事実は変えようがないことを入居者自身が一番分かっていたし、最後まで幸せな時を過ごして欲しいと職員も願っていた。そのことが、普通以上にこの場所を明るい雰囲気にしているのかもしれない。

 この施設では日中は、入居者とデイサービスを受ける人達はロビーで過ごすことが多かった。寝たきりという人が少ないことが理由の一つではあるが、職員数が足りないために、十分に目配りができるようにということでの対応でもあった。自分で歩ける人はソファーに腰掛け、不自由な人は車椅子のまま過ごした。中央には多きめなテレビが設置され、横には新聞や様々なジャンルの本が並んでいた。食事をする時だけは、隣接した食堂に移動した。

「失礼しま~す」澪は部屋の前に着くと声をかけてドアノブを回した。中に入っても誰もいないことは分かってはいたが、澪は一部屋、一部屋、声をかけて入った。澪は70近い部屋の全ての花瓶の花を差し替えた。既に2時間ほど経っていた。時計は7時を回っていた。      

「ふう~終わった」澪は思わず声を上げ、スタッフ室に戻った。         

「千賀子さん、終わりました」

「澪ちゃん、遅くまでご苦労様、ありがとうね。ボランティアで来てもらっているのに申し訳ないわ。近くアルバイトを募集する予定があるみたいだから、そうしたらアルバイトをしてみたらどうかしら?私からも上に話してみるから」          

「ありがとうございます。でも決められた日に来ることも出来ないし、今のままの方がいいんです」

「そうなの?大丈夫なの?」

「はい大丈夫です。それに楽しいから。明日も来ていいですか?」

「いいけど・・・でもコンクールもあるんじゃないの?」

「私一人くらいいなくても何とかなります。それに選抜メンバーにはなれないと思うから」

「そう?わかった。今日はお疲れ様。澪ちゃん気をつけて帰ってね」
澪は帰路についた。

 澪の家は施設からみて、学校の反対側にあった。学校からは10分の距離ではあったが、施設からは30分かかる。街灯が少ないため、道は暗かったが、その分、満天の星空を眺めることが出来た。星雲であろうか、ぼんやりと耀く淡い光を眺めながら、今日、花を生けて回った部屋を思い返していた。
(あの狭い部屋の中で一人で生活するのって、どんな気持ちなんだろう。施設に入居している人は寂しくないのかな。もちろん、施設の人は親切にしてくれるだろうけれど・・・。自分は無力だけど、少しでも喜んでいただけるよう手助けしたい)

 家の前に着くと門柱に明かりが灯っている。
「ただいま」扉のノブを回しながら、澪は大きな声を上げた。
澪が靴を脱ぎ終わるか終わらないうちに、母親が玄関に歩いてきた。   

「お帰りなさい。今日は遅かったのね。ボランティアもいいけれど、学校の勉強もあるし、コンクールも近いし、あまり、無理しないようにしなさい」

「今日は花の入れ替えがあって、遅くなってしまったの。それよりお腹空いた」
澪は二階にある自分の部屋に学校のカバンをおいて、急いで降りてきて食卓についた。サラリーマンの父親と、まだ小学生の弟が既に食事を始めていた。    

「 ねえ、澪、毎日遅いけど疲れない?大丈夫なの?」母親が聞いた。   

「平気、平気。それは疲れないといったら嘘になるけど、楽しくやっているから大丈夫」                                 

「その施設にはどんな人が入っているの?」

「いろいろだよ。年齢はみんなママより上だし、おじいちゃん、おばあちゃんが多いかな。澪のこと結構可愛がってくれるし、まあ、向こうからみると孫のように思ってくれているのかもしれない。それに何故だか皆明るいの。体が不自由な人が多いから大変だろうと思ったけど本当に楽しそう。職員さんもそうするよう努力していると思うけど」」

「ふ~ん、それなら良いけど。でも、来年は3年生だし、進路も決めなければならないし。部活は3年生までするの?」

「うん。3年生のコンクールが終わるまでかな」                

「勉強、部活、それにボランティアでしょ・・そろそろ一つに絞った方がいいんじゃないかしら。お母さんも心配」

「もちろん考えているわ。大学には行くつもり。でも、はっきりとした進路まではわからない。だから、今、いろいろなことをしてみて考えたいの。でも、お母さんの介護が必要になったら任せてね」                      

「澪の世話になるくらいなら、死んだほうがましよ」

「お母さんほどの元気があれば大丈夫かもね」
                            

 翌日のこと。音楽コンクールが間近に迫っていたため、吹奏学部員は授業が終わると急いで練習場に向かっていたが、澪は施設の千賀子に話していたとおり、部活には参加しないで施設のボランティアに行くつもりで帰る準備をしていた。

「詩織、ごめん今日も施設に行く約束しているんだ。だから部活に出ないけど、部長に話しておいて。よろしく」澪は詩織を拝むように手を合わせた。

「うそ~やだよ~。部長怖いもの」

「そんなこと言わずにお願い」

二人のやり取りを聞いていた副部長の明日香は言った。

「澪、コンクールには全員出られる訳じゃないけど、明日の部内オーディションはどうするの?オーディションを受けなければ出られないわよ」

「元々あまり上手じゃないし、明日考えてみる。今日はお願いします」

「詩織、じゃあね」 澪は階段を降りて行った。

 いつもの道をぼんやりと歩いていた澪の鼻孔を、甘くすがすがしい香りがくすぐり、澪は思わず立ち止まった。金木犀だ、澪にはすぐにわかった。昔、家の庭に金木犀の木があったからだ。五メートルはあるかと思えるような大きな木だった。今は枯れてしまったが、澪が小学生の頃、学校の行き帰り、木を見上げ、オレンジに色づいた花の香りを嗅いでいた。強すぎず弱すぎず、ほのかに匂う、ほっとできる香りで、その季節が訪れるのを、子供なりに楽しみにしていた。

 何処にあるんだろう・・・澪は辺りを見回した。香りの在処を知りたいと思い、ボランティアの時間を気にしながらも、探し始めた。それと思えるような大きな木は見当たらない。かすかな香りを頼りに小さな路地に入り込んではみたものの、家が密集しているだけだった。
この集落の家々には門がない。覗いてみると庭には小さな畑があり、納屋と思える建物の脇には農機具が置かれていた。裏の方からは犬の鳴き声が小刻みに聞こえる。

「すみません、誰かいますか?」
答えはなかった。農作業にでも出かけているのだろうか、人のいる気配もない。尋ねようとしても、歩いている人もいなかった。
澪は諦めて施設に向かって再び歩き始めた。

 5分程で見慣れたオレンジ色の建物が見えてきた。腕時計をチラッと見て少しだけ表情を歪めた。わあ、どうしよう、遅くなっちゃった。今から行っても駄目かな。澪は少し小走りになった。門をくぐり、欅並木を越えると、玄関横のテラスの大きなガラスが太陽光を反射し眩しく光っている。その光の中に澪を手招きする人影が見える。澪が玄関のドアを開けると千賀子が急いで近寄ってきた。

「澪ちゃん、どうしたの?遅いから来ないかと思った。利枝さんがお待ちかねよ」

「ごめんなさい。授業が終わってから、すぐに学校を出たんだけれど、ちょっと寄り道しちゃった。

「えっ?でも、寄り道する所なんか、この辺にはないでしょうに」
眼鏡の奥から睨むような目で千賀子が言った。澪は利枝の元に急いで駆け寄った。
利枝は澪を孫のように可愛がってくれる70歳半ばの女性である。品よく白髪を束ねているが、額に深く刻まれた皺が今までの苦労を滲ませている。
千賀子は叱責したものの、澪が遅れてきたことを咎めているというよりも、心配そうな表情で澪を待っていた利枝のことが気がかりだっただけなのだ。その証拠に車椅子に座っている利枝がニコニコと微笑んで澪を手招きしている様子を見て、安心したのか柔らかな表情に戻った。

 澪がこの施設でボランティアをするようになったのは昨年二学期半ばの11月頃からだったが、利枝とはそれ以来の付き合いとなる。最初に紹介されたのが利枝である。澪がくることは利枝にも伝えてあった。

「ごめんなさい、遅くなってしまって」
澪は申し訳なさそうに、頭を下げながら小声で言った。
利枝は澪が遅くなったことを気にする素振りも見せず、理由を聞くこともなく、来てくれたことが余程嬉しいのか、満面の笑顔で迎えてくれた。

「澪ちゃん、ありがとう。今日は来ないのかな?と思って諦めていたの。来てくれて嬉しいわ。忙しいのにごめんね」

「こちらこそごめんなさい。そうそう、学校からここに来る途中、金木犀の香りがしてきたの。すごく優しい香りだった。遅れそうで時間が気になったけど、思わず何処にあるのか捜しちゃったの。結局わからなかったんだけど・・・。早く来なけりゃと思っていたけど・・・」

「金木犀?もう、そんな季節になったのね」利枝の目が輝いた。

「いいのよ。私も金木犀は好きだわ。そんなにいい香りなら私も嗅いでみたいな。金木犀の香りは、柔らかで、ホッとする香りよね。昔、私の家にもあったのよ。でも、ずっと気持ちに余裕がなくて、すっかり忘れていた。う~ん、今からでも行きたいな。でも、身内と一緒でないと許可が下りないみたい。澪ちゃんは私の孫みたいなものだから一緒に行けたらいいのにねえ。今度、拓未に連れて行ってもらおうかな」
利枝は残念そうな表情を浮べた。
拓未というのは利枝が同居していた長男である。

「ねえ、千賀子さん。澪ちゃんと外出したいけど駄目かしら?」
利枝は駄目という千賀子の答えを予想しながらも、フロントにいた千賀子に声をかけてみた。
 千賀子は腕組みし、わざとらしく、睨むような素振りを見せて「規則だから駄目ですよ」と予想通りの答えが返ってきた。その後、困惑したような表情で澪を見て「でも、園内なら自由に回ってもいいわよ」と付け加えた。

「じゃあ、澪ちゃんと少し散歩してくるわね」               
「澪ちゃん悪いわね。庭に連れてってもらってもいいかしら?」  

「もちろんです。そんなこと気にしないで下さいね。おば・・・」

 澪はおばちゃん・・と言いかけて利枝さんとお話するのが楽しくて来ているんですから、と言い直した。この施設では名前を呼ぶことが規則で決まっていた。利枝はそのことに気付き、クスッと両手を口にあて軽く笑った。澪は利枝の車椅子を押して庭へと続く廊下を進んで行った。

 静かな廊下で、車椅子の車輪の音だけが響く。入口の自動ドアが開き、外に出た途端、太陽の光が澪と利枝を包んだ。屋内の蛍光灯と違う眩しさに澪は目を細めた。澪は車椅子をゆっくりと押して庭を歩き始めた。外の明るさに目が慣れてくると色とりどりに施された花壇が目につく。この施設の庭は然程広くなく、その狭い空間に所狭しと花壇が並んでいる。それでも紫陽花やスイートピーなど季節の様々な花が色とりどりに咲き、心地よい香りが漂っている。

「綺麗!それにいい香りね」                           
花壇に顔を寄せ、利枝が子供のようにはしゃいでいる。車椅子を押しながら、その横顔を眺めていた澪も嬉しくなった。   

「本当ですね」澪も合わせた。
今でこそ澪と利枝は身内のように親しくなり、お互いの気持ちがわかるようになってきたが、紹介された当初はほとんど会話もなかった。利枝は施設に入った寂しさからなのか自分から話しかけることはなく、澪も澪でどのように接したらいいのか考えあぐねていた。

 澪は車椅子をゆっくりと押しながら、利枝に祖母の姿を重ねていた。祖母は澪が小学校4年生の頃、他界した。仕事が忙しい母に代わって、澪の面倒を見てくれた。幼少の頃、近くに同じ年頃の子供が少なかったせいか、澪は詩織と遊ぶ時以外は部屋の中で過ごすことが多かった。祖母は膝の上に澪を座らせて、童話とか絵本を読み聞かせてくれた。それが、澪が本を好きになった理由かもしれない。初夏の頃は縁側に座って、庭にあった金木犀を眺めながら過ごしていた。柔らかな香りが澪を包み込み、友達の少ない寂しさを癒してくれた。祖母は優しく澪を抱きしめながら話してくれた。

「澪ちゃん、知っている?この金木犀は魔法を使えるのよ」   

「どんな魔法?お空をとべるとか、お魚になりたいと思うとなれるとか」

「そういう魔法とは違うけど。この木に話しかけてごらん。この木は人の気持ちがわかるの。例えば、澪ちゃんが悲しいと思えば悲しくなるし、楽しければ楽しくなって、たくさんの香りを放ってくれる。話しかけても、直接返事が返ってくるものではないけど、心のなかでお話できるの・・・だから、澪ちゃんが困ったとき、一生懸命にお願いしたら、どんな願いもかなうかもしれないよ」

「ふ~ん。そうなんだ」澪は金木犀を見上げた。
そのとき、木が微笑んでくれたように思った。だが、祖母が他界した年、金木犀は枯れた。祖母を見送るかのように・・・。
葬儀の日、棺に静かに横たわる姿には、優しく擁き、本を読み聞かせてくれた、澪の知っている祖母はいなかった。
「お婆ちゃん起きて」と呼びかけた澪に応えるでもなく、目も口も動かず、その手は人形のように冷たく固かった。そのことが不思議でならなかった。死の意味を知るのには、あまりにも幼すぎた澪ではあったが、祖母の死を通して、死そのものに興味を覚えた。祖母が生きていた頃、人は死んだら何処に行くのか尋ねたことがあった。
祖母は「天国というところがあって、人は死んだらそこに行くんだよ」と言った。 

「天国ってどんなところ?」            

「みんなが仲良くしていて、楽しいところだよ」

「お友達もたくさんできる?」

「たくさんできるよ」祖母は目を細めながら、楽しそうに語った。

祖母の思い出に浸っていた澪の口数は減り、押し黙り、静かに車椅子を押していった。車椅子だけが、車輪の音を響かせていた。

園内を20分程歩いた頃、澪の額からうっすらと汗がにじんできた。それでも時折の風がやさしく頬を撫ぜ、澪は思わず顔を上げ、雲一つない空を見上げた。 

「ああ~気持ちいい」
我にかえったように、澪は車椅子に手を掛けたまま背を伸ばした。                                    

「本当ね。ところで澪ちゃんは今、何年生だっけ?」   

「2年生」少し恥ずかしそうに、澪は小さな声で答えた。

「2年生というと卒業後どうするか決めているの?」           

「ううん・・・はっきりとは決めていないんだけど、とりあえず大学に進学して、今やっている音楽を活かせればいいな・・と思っているけど難しいかな・・」

「音楽って・・・何をやっているの?ピアノ?」

「うう~ん、フルートを吹いているの。部活でやっているだけなんだけど、高校生になってから始めたからあまり上手じゃないんだ。本当は小さな頃から音楽教室に通ってきちんと習っていたら良かったんだけど・・・」 

「そう・・。でも羨ましいな。楽器が出来るなんて。私なんか何にも出来やしない」

「私には音楽のことはよく分らないけど好きな道に進めるといいわね。でも澪ちゃんには本当に感謝しているわ。ありがとうね」利枝は下を俯きながら小声で言った。そして、利枝は遠くを見つめるような眼差で、自らを諭すようにポツッと呟いた。

「これで良かったのよね」                       

その声は澪の耳には届かなかったが、背中が寂しそうに丸まっているのに気付いた。

「私には息子が二人いるの。二人とも大きくなって、長男は結婚していて子供もいるの。次男はまだ、一人。私ね、朝日の郷にはいるまでは、長男の家族と一緒に生活していたの。でもね、脳梗塞になって、こんな体になってしまったじゃない。何にも出来ないじゃない。長男のお嫁さんに世話をかけていたけれど、お嫁さんも子育てもあるし、家事もあるし、楽じゃないよね・・・私、申し訳なくてね。ごめんね、こんな話、澪ちゃんにして」

「気にしないで下さいね。私はこんなことしか出来ないけど・・・何でも言って下さいね」    

「ありがとう澪ちゃん」

 この施設では、職員から入居者のプライベートに触れることはなかった。皆、それぞれの事情があって、他人に触れて欲しくないこともあるからだ。利枝が抱えている事情、悩みなどを澪から尋ねることは勿論ない。聞いたところで、高校生の澪に出来ることは何もないことは、澪にはわかっていた。
      
「お義母さん!」
突然の声に利枝は車椅子に座ったまま、首だけ動かし、声のする方を振り向いた。振り向いた先には嫁の実里が立っていた。

「あら、来てくれたの・・実里さん・・悪いわね」                   

「そんなことないですよ。今、部屋に行ったら居ないから、事務所で尋ねたら、散歩に出ていると聞いて外に出てみたの。ところでお体の具合はどうですか?」                                           
「お蔭様でとっても調子いいわ。天気も良いし、特に何もすることがないから散歩」
「あっそうそう紹介するわ。こちら世話をしてくれている澪ちゃん。まだ高校生なのよ。でも、とっても良くしてくれているの。とても良いお嬢さんなのよ」と澪を紹介した。                                

「義母がいつもお世話になっています。まだ、高校生なの?偉いわね。いろいろと大変だと思うけど、よろしくお願いします」

「いいえ、私何もしていないんです。ただ車椅子を押しているだけで・・・」と言いつつも、澪は利枝が褒めてくれたことで、少し照れくさくなって顔を赤らめた。

「後は私が行うから大丈夫よ、ありがとうございました」

「はい、わかりました。じゃあお願いします」
実里が澪に代わって車椅子を押し始めた。                   
「澪ちゃん、ありがとう」と言う利枝に軽く手を振ると、建物の中に入っていった。

「佐々木さん、帰ります」

「ご苦労様、利枝さんどうだった?何か変わったことはなかった?」

「特にありませんでした」

「今度、木曜日に来られるって言ってたわね?」

「はい、そのつもりです」

「また、よろしくお願いね。来られないようだったら電話して」     

「はい、わかりました」

お嫁さんの実里さんが来た時、利枝さん嬉しそうだったな。顔がパアッと明るくなって。そうなんだよね、やっぱり一人でいるのって寂しいものなんだよね。私では話し相手にもなれないけど、出来るだけ来てあげたい)                   

 既に日は落ち薄暗くなり始めている。金木犀は何処にあるのだろうか、と澪は思いながら歩いて行った。施設を出てすぐに金木犀の香りがしてきた。この香りだ、と澪は思った。本当に何処にあるのかしら、と施設の隣の集落の中へと入っていった。
この集落には初めて入ったが、学校の近くの集落に比べると、農家は少なく、一般の住宅が多かった。道も然程広くなく、車は見かけなかった。駐車場が別の所にあるのかな、と澪は思いながら、中へ中へと入っていった。

「あっ!あった」思わず声をあげてしまった。
金木犀の木が3軒先の家の木の塀から道にせり出している。金木犀の香りは風に乗って、学校の近くまで流れてきていたのである。
金木犀の香りは凄いな、遠くまで届くもんだな、と金木犀の香りの強さを改めて澪は思った。家に近づいてみると二階建ての木造の家で塀の隙間から覗き込むと広い庭の様子が見て取れた。人が住んでいないのか、あまり手入れされておらず、雑草が伸び続けている。小さな縁側はあるが人影はない。              

<金木犀が咲く家>


 この家には3か月前まで、会社員の新藤祐一と実母の幸子、祐一の妻の陽菜、子供の健一の4人が生活していた。どこにでもいる家族であるが、母親の幸子が認知症と診断され、一家の生活は一変する。        
最初は幸子が認知症と気がつかなかった。軽い物忘れかと思った。普段は陽菜が食事を作り、時々は幸子が作る。
ある日のこと、陽菜は台所から焦げたような異臭がするのに気がついた。台所の扉を開くと、居るはずの幸子がいない。それどころか火にかけていた鍋から煙があがっている。陽菜は慌てて火を止めた。

「お義母さん、何処にいるの?」陽菜は声を上げた。すると幸子が不思議そうな顔をしながら部屋から出てきた。

「陽菜さん、大きな声を上げてどうしたの?びっくりするじゃない」

「お義母さん、火をかけっぱなしで火事になったらどうするんですか」

「でも、陽菜さんが台所で食事を作っていたんでしょ」

「今日はお義母さんが作るっておっしゃったから私は奥で洗濯をしていたのに」
思わず陽菜は声を荒げた。

「そうだったかしら。陽菜さんごめんなさい。そう言われればそうよね。」

 また、ある時は食事をしたことを忘れてしまうこともあった。

「陽菜さん。今日は朝ごはんは食べないの?」

「お義母さん、さっき食べたでしょう?」

「あ、そうよね。私馬鹿みたい」
そのような会話が交わされることが多くなった。

その日の晩、陽菜は夫の祐一に相談した。

「お義母さんのことなんだけど、最近物忘れがひどくなってきたと思うの」

「何かあったの?」

「あったどころの騒ぎじゃないわ、この間なんか大変だったんだから。もう少しで火事になるところだったんだから」

陽菜は裕一にボヤ騒ぎや食事のことを忘れたりしたことを細かく話した。腕を組んで、しばらく考えてから祐一は口を開いた。

「それ程ひどいのなら今度、医者に相談してみようか」

「お願いそうして」

 祐一が休みの日、祐一と陽菜は幸子を病院に連れていくことにした。幸子は病院にいくことを嫌がったが、高齢者の健康診断を行うと説得して連れて行った。病院では問診と簡単なテストを行ったが、結果認知症との診断が下された。

 そうしたある日。洗濯物を干して部屋に戻ると幸子がいない。買物でも出かけたのかしら?と思って外に出てみると幸子は学校の方に歩いていく。

「お義母さん、何処に行くの?」陽菜が大きな声で叫ぶと、幸子は立ち止まって振り向き「家に帰るの」と言いながら更に歩いていく。
陽菜は聞き間違いかと思った。知り合いの家に行くのかもしれないとも思った・・・が様子が何となくおかしい。よく見ると履物を履いていない。裸足で歩いていく。陽菜は慌てて走り、義母に追いつき手を握った。

「お義母さんの家はそっちじゃないですよ。一緒に帰りましょう」

実はかつて幸子の実家が学校の裏手にあったのだ。だが、両親が亡くなった今は人手に渡り、幸子の身内は誰も住んでいなかった。それでも自分の家がまだあると思い込んでいたのかもしれない。

「家に帰ったら駄目だと言うの!」幸子は陽菜の手を振りほどくと物凄い剣幕で言い放った。遠くで主婦らしい女性が二人、こちらをチラリ見し、何事か囁く。この日からこのやり取りが毎日のように繰り返されていった。普段は穏やかな幸子ではあったが、時々、人が変わったように粗暴な言動をとった。

 ある日、一人で出て行った幸子を、やっとのこと家に連れ戻し、夕食をとっているとき「陽菜さん。今日はごめんなさいね。私何か勘違いしてしまったみたい」と幸子は穏やかな普段の声色で陽菜に謝った。記憶に穴が空いてしまうのかもしれない。普段は自分の立場を理解しているのか、会話も普通に出来るのだが。

 ところが、その夜のこと。午前2時頃、玄関の扉が開くような音がした。ギーッという音で目が覚めた陽菜が階下に降りてみると、幸子が、まさに扉を開き外に出て行こうとしていた。陽菜は慌てて幸子の腕を掴んだ。                               

「お義母さん、こんな時間に何処に行くんですか?」

「家に帰るのよ」

「ここがお義母さんのお家でしょう。お義母さんの家はもうないのよ」

「あなた誰?なんでそんな意地悪するの!どうして家に帰ったら駄目だと言うの!」
幸子は陽菜の手を叩いた。

「お義母さん、そんなに出て行きたいのなら出て行ったら良いじゃないの!」

陽菜は決して言ってはならない言葉を発してしまった。瞬時に、そんなつもりはなかったのにと自分を責めたが、自分の本心はそこにあったのではないのかという思いが湧き出てくるのを打ち消すことが出来ずに俯いてしまった。
ギーッという音がして、幸子は出て行った。
ただならない物音に起きた夫の祐一が寝巻姿にガウンを着ながら階段を降りてきた。

「どうしたの?何があったの?」

「お義母さんが家に帰ると言って出て行ってしまったの」

「何だって!どうして止めなかったんだ。何をしているんだ!」

祐一は慌てて幸子を追いかけて出て行った。陽菜は動けずに、そのまましゃがみ込んでしまった。流れ続ける涙を止めることも出来ずにいた。


 その後も幸子の症状は改善されることはなかった。むしろ日毎に悪化の一途をたどっていった。昼と夜が逆転したのか、夜になると自分で玄関の鍵を開け外に出て行くことが多くなった。その度に陽菜が連れ戻す。その繰り返しである。

昼夜問わずの介護は次第に陽菜を追い詰めていった。

どうしたらいいの?何で私ばかりが苦労しなければならないの?陽菜は思った。

 陽菜は元々この土地の生まれでなく、何でも話し合える友達もいなかった。一人で全て抱え込んで、誰にも相談出来ずにいた。介護疲れから、陽菜は次第に塞ぎ込むようになり、精神的にも、肉体的にも追い込まれた陽菜は夜明け前の暗闇の中、台所の脇にある裏口から誰にも気づかれないように、こっそりと出て行った。

 私のせいじゃないわ、お義母さんが、あんなことにならなければ良かったのに・・・。夫も何もしてくれないじゃない・・と陽菜は家を出るという行為を正当化しようとした。駅へと向かう夜道を、いつの間にか溢れ、頬を伝わり落ちていった涙を拭くことも忘れた陽菜は、夢遊病者のように、とぼとぼと歩いて行った。田舎道のため、街灯もほとんどない。どうやって駅にたどり着いたのか記憶もない。ただただ、この場所を去りたいとの思いが陽菜を東京に向かう一番列車に向かわせた。



 陽菜は家を出たものの、両親は病気で既に他界しており、頼る先も住む場所もなかった。終点の上野駅に着いた陽菜は駅頭に暫く佇んでいた。家を出たものの、やはり夫や子供、そして幸子のことが気にかからないといったら噓になる。

 携帯電話を置いてきたため、夫から連絡が来ることはない。祐一は食事はどうしているのだろうか、お義母さんは生活出来るのかな?健一の保育園は?考えても何も出来ないことは陽菜にはわかっていた。
家に戻ろうかな、そうしたら元の生活に戻るだけ・・・。私にはこれ以上耐えられない。
 陽菜は迷いを断ち切るため、その場を離れ、泊まる場所を探した。上野駅中央口から10分ほど歩いた場所のビジネスホテルにこの日は泊まることにした。
 
 翌日になり、仕事を探すため、山手線に乘り新宿駅に向かった。所持金も十分といえず、しかも家出状態のため、住民票も取れず、アパートを借りることも出来ない。
 陽菜は新宿駅東口を降り、歌舞伎町方面に歩いて行った。繁華街らしく、昼間でも多くの人が溢れていた。何軒か飲食店に入り、雇ってくれるよう頼んだが断られた。が、最後に入った小さなスナックで住み込みで働く事が出来るようになった。その店で働く人には様々な事情があるため、店側も詳しく尋ねることはしなかった。

 店が終わると自分の部屋に帰り、隅にあるお気に入りの白いソファに腰をかけ毎日のようにワインを喉に運ぶ。それでしか心を癒す術を陽菜は持ち合わせていなかったのだ。だが、深夜まで及ぶ勤務が次第に陽菜をボロボロにしていった。

 陽菜は瞬きもせず、虚空に向かって溜息をした。

「私は本当にこれで良かったの?でも仕方なかったのよね。誰だってそうするに決まっている。私のせいじゃないわ」

 陽菜は誰に話しかけるでもなく声に出した。口に出すことで逃げ出してきたという後ろめたさを封じ込めようとした。それに声に出さないと崩れそうな気がした。
祐一はどうしているんだろう、健一の面倒は誰がみているんだろう。家を出たことが、果たして正しい選択だったのだろうか。それ以外の選択もあったのではなかったか。毎日、自問自答の繰り返しである。陽菜は出口の見えない心の迷路を彷徨っていた。そして日に日に増えていく酒が体を蝕んだのか38歳の若さで生涯を終えた。心筋梗塞であった。人である以上運命づけられている死。が、まさか自分が30代の若さで死ぬとは想像だに出来なかったに違いない。
 
 陽菜は薄暗い場所にポツンと一人佇んでいた。辺りを見回しても何もない。街の中なのか、森の中なのか、日頃生活している空間と全く異なるこの場所が何処なのか、果たして今が何時なのか、陽菜の感性を超えた場所と時。立っているのか、それとも浮いているのか、その感覚さえない。先程までと違う自分がいることに陽菜は戸惑っていた。

私はどうしてしまったの?確か自分の部屋でお酒を飲んでいて・・・そう部屋の隅にあるソファに座っていたんだわ。テレビではいつものドラマをやっていて・・・。
何なの?ここは何処なの?私が何でこんな所にいるの?私の家はどこ?
陽菜の頭の中は混乱していた。ここが死後の世界であることは想像さえ出来なかった。自分の意思に反して突然旅立たなければならなくなった陽菜が混乱してしまうのも無理もないことであった。陽菜はこれからどうしたらいいのか全くわからず座り込んでしまった。

 しばらくすると突然、過去の出来事が走馬灯のように目の前に現れてきた。映画のように過去の自分が映し出されている。陽菜はその光景に見入っていた。結婚した頃の幸せな日々、そして家を飛び出した日の朝。
そう当時、都内に通勤する夫の祐一を送り出すのが日課だった。陽菜が食事作りの台所の音が目覚まし替わりで祐一が一人で起きてくる。義母の幸子と健一はまだ寝ている。そして他愛の無い会話が続く。

「最近どう?会社では何かあった?」

「ううん。別にいつもと何も変わらないよ。自分もこのまま平凡に働き年をとっていくのかな?」

「何言っているのよ!これからもっともっと頑張って働いてもらわないとね。でも無理はしないでね」     
「うん。ありがとう。ところで健一はどう?僕は毎日朝早く出て夜遅いだろう。だから起きている姿を滅多に見ない。日曜日くらいだもんね。父親ということが分らなくならなけりゃいいけどね」

祐一は食事の箸を置いて真顔になった。

「そんなことはないわよ。健一は歩くことの練習中。今、掴まり立ちで足もしっかりしてきたから、もうじき歩けそうよ」

「へえ、楽しみだね。歩けるようになったら動物園に行ったりしたいね」
祐一は再び箸を手に取り食事を口元に運んだ。

「そうね、お義母さんも言っているわよ。健一はあなたにそっくりだって」
毎日同じような会話を交わす。これが出勤の儀式のようなものだった。祐一を送り出すと義母の幸子と健一が起きてくる。そして朝食を三人で済ませると掃除に洗濯。陽菜は洗濯物を持って庭に出る。庭では金木犀の清々しい香りが漂っている。

(あの頃は幸せだったな)
(そうね。その後なのね。義母さんが認知症になったのは・・・)
(お義母さんが悪いわけでないのに・・・病気のせいなのに・・・)

場面が変わった。幸子が家に帰るといって聞かなかった日、陽菜は裕一に言った。

「たまにはお義母さんの面倒をみてよ。少しは協力してよ!」

「自分は会社があるんだから仕方がないだろう」

祐一もむきになって言い返す。
陽菜も十分そのことは分っているのだが、行き場のない思いを祐一にぶつけることで少しでも気持ちを共有して欲しかっただけなのだ。

「私どうしたらいいかわからない。これ以上どうしろと言うの?」

「もう駄目、これ以上は無理」

(本当にいろいろな事があったな・・。お義母さんのことは嫌いじゃない。大変なことも分っている。分っていてもどうにも出来ない自分がいた。自分だけが何故?という気持ちにもなる。人の幸福って何だろう?夫ともう少し話せたら結果は違ったかもしれない。たった一人でもいい。誰でもいい。自分のことをわかってくれる人がいれば・・・。でも自分はどうだったのだろうか?人のことをどれだけ理解しようとしたのか?夫のことを、お義母さんのことを・・・)

 陽菜は自らの心に語りかけながら、膝を抱えて丸まっていった。いつの間にか溢れていた涙が雫となって頬を伝わっていった。

 突然、青白い光が陽菜を覆った。陽菜はあまりに眩しくて目を逸らせた。その光は陽菜の周りをグルグル廻り、やがて人の姿に変わっていった。気がつくと目の前に若い女性が立っている。面長な顔立ちで、ストレートな黒髪が印象的だ。その女性は陽菜の正面に立つと、目を見つめながら、話しかけてきた。

「陽菜」
透き通るような、優しい呼びかけに陽菜は戸惑い、返事を返すことも出来ず、その女性を黙って見つめていた。女性は言葉を続けた。
「陽菜...驚いた?無理もないわよね、突然死んだのだから」         
陽菜にはその言葉の意味をすぐには理解することが出来なかった。

「えっ!今何て言ったの?」
陽菜は驚愕の表情で女性を見つめた。

「そう、陽菜、あなたは死んだの。あなたが今まで生きていた世界にはもういないのよ」それを聞いて陽菜は動揺を隠せず俯いて黙りこんでしまった。

「ところで、あなた誰?」陽菜はやっとのこと声を絞り出した。

「わからないかしら?」

「それじゃあ、この姿ならわかるかな?」                  そう言うやいなや、髪の短い50歳前後の姿に変わった。

「・・・まさか・・・お母さん!」

「お母さんなの?でもお母さんは私が20歳の頃、病気で亡くなったはずなのに・・・どうして?」

 この状況は陽菜の理解をはるかに越えていた。既に亡くなった母が突然、目の前に現れた。夢の中にも現れなかった母。その母が目の前にいる。これは現実のことなのであろうか?
ソファに座って飲んでいた酒のせいで幻を観ているのに違いない。

そうよ、そうよ、これは夢よ。少しお酒を飲みすぎて、現実でないものが見えているのよ。明日の朝になれば、いつもの生活に戻るにちがいないわ。
陽菜は自分自身をそう説得させようとした。

でも、陽菜にはわかっていた。目の前の出来事が夢などでなく実際に起こっていることだということを。陽菜はそれ以上、言葉を発することが出来ず、ただただ母を見つめていた。母は戸惑っている陽菜の様子を見て、しばらくの間、沈黙していた。やがて言葉を選びながら、ゆっくりと語り始めた。

「陽菜。私がこうしてあなたと話せるようになったのは、あなたがこちらの世界に来たからなの。陽菜は私と違って突然亡くなったからわからないのね。無理もないわ。まさか、亡くなった後に生きる世界があるなんて誰も思わないものね」

「本当はもっともっと長生して幸せになって欲しかった。あなたが結婚して子供が産まれた時、お母さんはどんなに喜んだことか・・・。その後、大変な苦労の中で家族を支えてきたこと知っているわ。あなたが苦労して辛そうに涙を流している時、あなたの傍にいつもいたもの。声をかけたこともあったけど、その声はあなたに届かなかった」

 陽菜は母親をじっと見つめた。

「お母さん、私、本当に死んだのね。私辛かった。誰もわかってくれないし・・・夫でさえ・・・。お義母さんの世話をするのに寝ることさえ出来なかった。毎日、夜中に起こされていたの」

「お母さん。死ぬってどういうことなの?私、死んだら、全て消えて無くなると思っていた。辛いことも良い思い出も」

「そうね、その通りよ。皆、そう思って人生を送っているのね。お母さんもそうだった。ところが、そうではなかった。こんな世界があるなんて、思ってもみていなかった。陽菜、お母さんが亡くなった時のこと覚えている?お母さんが病気で亡くなる一週間ほど前かな、お母さんのお母さん、つまり、陽菜のお婆ちゃんが病室に来たの。何も言わずにただ、ベッドの脇に立って、顔をお母さんの方に向けることもなく、じっと立っているだけなんだけど。翌日も目を覚ますと、お婆ちゃんがいる。相変わらず黙ったまま。声を掛けても振り向きもしなかった。
ところが、あの時ね、お母さんが亡くなった日、いつもと違って、お婆ちゃんがお母さんの方を向いて、にこっと笑って、手を握ってくれたの。そして、お母さんを引っ張ってくれた。どこに行くのかな?と思って歩いていった。ベッドの方を振り返ると、お母さんはベッドに横たわったまま。その脇で、陽菜は泣いていたわ。それで、お母さんは死んだんだな、と思った」

陽菜は、その時のことは今でも、昨日のことのように覚えている。そんなことがあったなんて、夢にも思わなかった。

「でも、お母さん、どうして、死んだ後に生きる世界があるの?」

「そうね・・・難しいわね・・・私にも本当のところよくわからないの。神様しか分からないんじゃないかしら。でも、はっきりとしていることは体が無くなった分、気持ちがストレートに現れるの。喜びもそうだけど、悲しみや苦しみといった気持ちもそのまま持ち続けることになるの。その気持ちは隠せない。生きていた頃以上に辛い。だから、生きていたときに後悔ないようにしないといけないのかもしれない。そして後悔したところで後戻りは出来ない。このまま生き続けるしかないというのがこの世界の決まりみたいね」

「お母さん私辛い・・・。やり残したことばかりあるの。家族のことも心配。私毎日が辛くて耐えられなかった。誰かが支えてくれたらといつも思っていたわ。でも、これって自分勝手なだけかな?お母さん」

「陽菜。辛かったと思うわ。私でも同じ立場にいたら自信ない。陽菜は頑張ったわよ」

「そんなことない。私はお義母さんだけでなく、夫と子供も捨ててきたの。夫は仕事があって大変だと思う。一人でお義母さんと子供の面倒などみられるはずはない。どうしているのか気になっていたけど、家を出てしまったから、そして死んでしまったから、今更戻れるはずはない。はずはないの」

母親は沈黙した。そして、ゆっくりと語り始めた。

「そうね。確かに祐一さんは大変だと思う。陽菜が亡くなってしまった今、直接何かしようと思っても、出来ることはないと思う。でも陽菜・・・祐一さんを助けることはできないけど、陽菜の苦しみを和らげる方法はあるのよ。それは死ぬ前の世界に戻って・・・といっても生き返ることなど出来ないけど、誰かを助けてあげることが出来れば、その人が感じたことを自分も同じように感じられるというわ。だから、陽菜と同じように、介護している人を手伝ってあげることが出来れば、その人が感じたことが、そのまま、陽菜の気持ちになるから、お義母さんを介護していたとき、そして家を出てしまったときの気持ちも、整理出来るかもしれない」

「お母さんそれって本当?それなら、私もう一度戻ってやり直してみたい。でも、どうしたら戻れるの?」

「陽菜、何か感じない?この香り。金木犀の香りよ」

「本当だ、金木犀の香りがする。でもどうして?」

「金木犀の香りはこの世界にきても、つまり死んだ後に来るところまで届くのよ。そして、目を閉じると、この香りに乗って元の世界に戻ることができるの。私もこの季節に一度死ぬ前の世界に戻ったことがある。でも、戻っても死ぬ前のように普通に人と話せるわけでもないし、当然その姿は人からは見えない。だから、お母さんが戻って、陽菜の横にいても陽菜は気づきもしなかった」

「そうなんだ。でも、それで自分が変われるのならもう一度やり直してみたい」

「わかった陽菜。どういう結果になるかはお母さんにもわからないけど、後悔しないように一生懸命にしてみなさい。でもここからは一人でやるしかないの。お母さんも手伝うことは出来ないから」

 気がつくと、陽菜は、結婚していた頃住んでいた、祐一の家にいた。金木犀の香りが当たり一面に漂っていた。陽菜は深呼吸した。(懐かしいな、この匂い。この家でもう一度やり直せるのかしら)だが、様子は陽菜が想像していたものとは違っていた。誰も手入れしていないのか、庭は荒果て、雑草が辺り一面生えていた。
陽菜は悲しくなった。自分が出て行ったことで、この家はこんなになってしまったのか。
心が張り裂けんばかりの気持ちに襲われた陽菜は、家の外に佇んでいる少女に気がついた。何をしているのかしら、陽菜は思った。その少女は澪だった。そのとき、風もないのに、金木犀の木が揺れだした。この子についていきなさい、と言っているかのように・・・。陽菜は澪について行くことにした。       

(あの~)陽菜は勇気を振り絞って声をかけたものの、少女は全く気がつかない様子だった。             

(私の声が聞こえないの?こんにちは。私は陽菜)

立て続けに話しかけてみたが、陽菜の声が聞こえないのか、やはり反応はなかった。陽菜は女生徒の手を握ろうとした・・・が手をすり抜けてしまった。

(あっ・・・)

陽菜は思わず声を上げた。陽菜はもう一度手をそっと触った。握った感触はなかったものの、何故か少女の体温が伝わってきた。    

(暖かい)

陽菜は思った。でもその暖かさは澪の体温でなく、心の温かさであることを陽菜は知らなかった。陽菜は歩き出した女の子の後をついて行った。女の子はやがて松浦という表札がかかった一軒の家に入っていった。自宅らしかった。

「ただいま」

「お帰りなさい澪、学校はどうだった?」

母親だろうか、女性が声をかけた。

(この子の名前は松浦 澪というのか、それに、まだ高校生なのか。お母さんは誰かの手伝いをしなさいと言っていたけれど、どうして高校生のこの子なのか、それに何をすればいいのだろうか)
陽菜は全くわからなかった。ただ、一緒に居ようと思った。夜になっても特に眠くはなかったが、澪の部屋に一緒に行って、澪の傍に座っていた。澪に声をかけたものの、澪は相変わらず黙ったままで全く反応がないことに陽菜は戸惑っていた。

翌朝になって、学校に出かけていく澪についていった。

「澪、おはよう」友達だろうか、一人の女生徒が近づいてきた。一緒に学校に行くようだった。

「ぼんやりしてどうしたの?」その子は心配そうに澪の顔を覗き込んだ。

「うう~ん何でもないの」

澪は少しはにかんだような笑顔を見せた。   
何でもないと言ったものの、いつもと違う感覚に澪は戸惑っていた。何かが違う・・・だが何が違うのかと問われても明快な答えを引き出すことはできなかった。喉元に小骨が引っかかっているように、心の片隅にいつもと違う違和感があり黙り込んだ。

 学校に着くと澪は部活の朝練に向かった。コンクールが迫っていたが、ボランティア活動が忙しく、思うように練習が出来ないでいたのだ。
澪はフルートを吹き始めた。
          
(フルートを吹いているんだ。吹奏楽部か?懐かしいな・・・)

実は陽菜も学生時代吹奏楽部に入っていたのだ。そこではトランペットを担当していた。中高一貫校で、6年間続け都内の大会で優勝したこともある。

(でも・・・私はどうしたらいいのかしら?お母さんは人を助けたら気持ちを整理できると言っていたけど。どのようにして澪ちゃんを助けたらいいの?何故、澪ちゃんなの?)
陽菜は具体的にどのように澪を助けたらいいか分からなかったが、澪と一緒にいることで答えを見出せるような気がした。
こうして澪と陽菜とのミステリアスな関係が始まった。
 
 昼練が始まった。澪はフルートの音階練習に取り組み始めた。陽菜は澪の脇に立ち、澪の練習を見ていることにした。丁寧にフルートに息を吹き込む澪の様子をみて懐かしい身持ちになった。               

(私も毎日、このように練習していたっけ。すっかり忘れていたわ。その頃は楽しかったな。毎日が充実していた。勉強は嫌いだったけど部活の練習は楽しかったし、学校帰り友達と学校の前のお店に寄り、くだらないお喋りをしていたな)
陽菜は練習に打ち込んでいる澪の横顔を眺めながら、学生時代の自分を思い出していた。

(ああ、私もトランペットの練習をしたいな)陽菜が思った瞬間、手にトランペットが握られていた。
(え、何?)突然、現れたトランペットに驚きながらも、嬉しくなった陽菜は一緒に練習始めた。息を吹き入れてみると、柔らかな音色が広がった。澪を見ると気がついた様子はない。
(声が聞こえないだけでなく、楽器の音も伝わらないのか?)                           

陽菜は少し残念に思ったが、それでも一緒に練習出来たことで嬉しくなった。昼練が終わり、澪は教室に戻った。授業が始まるらしい。陽菜は澪に寄り添う形で講義を聴くことにした。あまり勉強が好きでなかった陽菜は授業はパスしたかったが、澪と一緒にいると決めたので、澪の席の隣に立った。陽菜が苦手な数学の授業だ。澪はと見ると欠伸などしている。どうやら澪も数学が苦手らしい。

(な~んだ。私と同じね・・・)

でもこの子を通して自分が変われるのなら我慢してみようと陽菜は思った。何とか授業も無事に終わり、次は部活と思いきや、澪は練習室に向かわず帰る支度を始めた。

「澪、オーディションはどうするの?」

「今年は無理だと思う。だからパスする」

「わかった。澪、気をつけていってね」

澪は詩織に挨拶をして教室を出て行った。陽菜も後をついていった。

(何処に行くのだろうか?)

澪は校門を出ると右に折れ、足を早めていった。

 澪はいつものように施設に向かったが、途中、金木犀のある家に寄ろうと思い、施設の近くの集落の中に入っていった。そして、金木犀の家の前に佇んだ。ここに来るとほっとするな、どうしてだろう。これも金木犀がもたらす魔法なのか、以前から知っているような懐かしさを感じ、澪は不思議でならなかった。

陽菜は、一人家の中に入っていった。祐一と喧嘩したときや、息子の健一が言うことを聞かなくて腹を立て怒鳴ってしまった時、庭に出てこの香りを嗅ぐと心の落ち着きを取り戻したことが幾度となくあった。この金木犀が自分の気持ちを理解してくれているような気がした。

(でも、最後は駄目だったな・・・)
陽菜はボソッと呟いた。

(みんな何処にいるのだろうか?)
家の中には誰もいなかった。引っ越した様子もなく、ゴミが散らかり整頓もされていない。

(祐一は会社なのかな?お義母さんはどうしているんだろう)
陽菜は気になった。
実は祐一は会社を長期休暇し母親の面倒を見ていたが、それも限界で、この日「朝日の郷」に入居することを前提にデイサービスに出かけていたのだ。

この家の前に留まっていたのは僅か5~6分のことであろうが、何故か、澪には、とても長い時間に思えた。それはこの家に、長年住んでいた陽菜と関係あるのであろうか。

「変なの」澪は再び歩き始めた。10歩程歩き今一度振り返り首を傾げた。

「これって何処かで・・・・」

「何故だろう?以前同じようなことが・・・」

そんなことはないと澪は二度三度首を横に振った。。
陽菜は澪の後をついていった。
澪はある建物に入っていった。入口には「朝日の郷」と書かれている。

(ここは介護施設だわ。澪ちゃんはここで何をしているのだろうか。私は澪ちゃんと一緒にいることで、やり直せるのかもしれない)

「千賀子さん、こんにちは」

「澪ちゃん、いらっしゃい。今日は学校が早いのね」

「はい、そうなんです」

「おお澪ちゃんじゃないか。元気かな?今日は会いに来てくれたの?」

「門倉のおじいちゃん、こんにちは。おじいちゃんも元気そうでよかった」

「ここで毎日暇しているからね。それに、ここの食事は最高なんだ。だから、益々元気になってしまうよ。早く冥途のお迎えがこないかな、と待っているんだけどね」

「また、そんなことおっしゃって。長生きして下さいね」

「ありがとうね」

ここでは名前を呼ぶことが規則で決められてはいるのだが、澪からみると、おじいちゃん、おばあちゃんばかりで、親しくなるとついつい言葉に出してしまう。
(澪ちゃん、楽しそう)

「千賀子さん、門倉さんお元気そうですね」

「ほんと、元気そのものよ。もうすぐ100歳になるというのに。夕方になるとエンジンがかかってしまうんだけど・・・。100歳を超えてほしいと私達も思っているの」

 澪は利枝のいる二階の206号室に向かった。ノックをしたが返事はなかった。利枝は部屋にいないらしい。この施設は認知症などの特別な人を除いて自由にこの施設の中で動くことが出来た。個室があるため読書や絵手紙など比較的軽い趣味は部屋の中ですることも出来る。利枝も足の不自由なことを除けば通常の生活をすることが出来たため、この施設内で不便はなかったが外出だけは身内と一緒でないと許可が出なかった。澪はもう一度一階に降りロビーに向かった。

「千賀子さん、利枝さん部屋にいないんですけど、何処かに出掛けたんでしょうか?」

「そう?あ、あそこにいるわ。あそこで本を読んでいるわよ」

千賀子が呼び指す方を見ると、車椅子に腰かけている利枝の後ろ姿が目に入った。
 このロビーには広いスペースが確保されていて、入口付近には来訪者と談笑が出来るよう車椅子を並べられる応接セットが用意してある。利枝は、その隅で車椅子に座ったまま読書をしているようだ。
澪は利枝にそっと近づき背後から声をかけた。

「利枝さん」

利枝は突然声をかけられたことで一瞬ビクッとしたが、声の主が澪であることがわかり、読んでいた本を机に静かに置き車椅子ごと振り返った。

「あら澪ちゃん!いらっしゃい」

「音楽のコンクールが近いって聞いていたけど練習はないの?大丈夫なの?」

「うん。平気、平気。今回は選抜メンバーでないから」と言いながら澪は利枝の肩を揉み始めた。陽菜も一緒に手を動かした。利枝は澪に肩を揉まれながら目を閉じている。

「ああ気持ちいい、ありがとう」

「どういたしまして」澪と、陽菜は同時に声を上げた。もっとも、陽菜の声は利枝には届かなかったが。
(澪ちゃん本当に楽しそうね。不思議ね~すると私も何となく楽しいし嬉しい)

「利枝さん、わかったよ、金木犀がある家」

「あっそう、何処にあったの?」

「この前、ここに来るのが遅れた日、探したけどわからなかったと言ったじゃない。この前捜した集落の隣だった。香りって意外と遠くまで届くんだなあ~て思った。平屋建ての家で誰も住んでいないような感じだったけど、利枝さん知らない?」                      

「わからないわね。私の家はこの辺じゃあないし。知り合いも居ないから」      
(それは私が住んでいた家。でも皆、何処に行ったのかしら・・・)
陽菜は荒果てた家を思い出し、悲しい気持ちになった。

「利枝さん、何の本を読んでいるの?」

「ああ、これ、植物図鑑よ。写真が奇麗でしょう。見ているだけで楽しくなるの。家に花を沢山植えていたわけではないけど、元々花が好きだったの」

「そうなんだ。本当に奇麗な花が沢山ありますね」

「澪ちゃんは花は好き?」

「もちろん奇麗だなとは思います。でも、ゆっくりと眺める余裕がなくて」

「そうよね、学校の勉強、部活、そして私の世話もしてくれているし時間はないわよね。澪ちゃんには申し訳ないなと思っているの」

「それは違います。ここには好きで来ているんですから」
・・・利枝は何も言わずに微笑んでいた。
(澪ちゃんは優しい子なのね)陽菜は思った。

 澪は朝日の郷を後にし家路についた。両親は共働きをしているため、この時間に澪が帰っても誰も居ないことが多い。。弟は小学生だが、学校が終わると隣接した学童保育に行き夕方まで友達と過ごしていた。
 玄関の扉を開けて、家の中に誰も居ないにもかかわらず、ただいま~と毎日大きな声を上げる。防犯上の理由から母親に言われていたことではあるが、いつの間にか、大きな声を上げないと家に帰った気がしなくなっていた。それから台所に入り冷蔵庫を開け母親が用意した「おやつ」を手に自分の部屋のベッドに横になりながら、イヤホンを耳にあてお気に入りの音楽に耳を傾ける。それが日課となっている。

だが、この日は違った。澪が玄関で声をかけるやいなや、廊下の奥の方から「お帰りなさ~い」という声がした。
あれ、お母さん仕事が休みなのかな?と訝しく思いながらも、リビングを覗いて見たが、母親の姿は何処にも無かった。

「えっ!えっ!えっ!」

「誰?誰かいるの?」
澪は驚きのあまり、カバンを置くことも忘れて、カバンを肩にかけたまま、家中を探し回ったが、声の主を見つけることは出来なかった。

「やだ~」
澪の心臓はパクパクとし、鼓動が耳に響く。
自分の部屋に入りベッドに横になって、いつもよりスマホのボリュームを上げた。音がイヤホンから僅かに外に漏れた。が、澪には音が全く聴こえないのか、音楽に合わせて体を揺するでもなく、空ろな眼は天井を向いたまま、焦点が定まらず宙を泳いでいた。

(気をきかしたつもりだったけど澪ちゃんを驚かせてしまったのかな?)陽菜は思わず舌をだした。

「気のせいよ、気のせいよ」と澪は自分に言い聞かせてみたものの空耳でないと思った。

「本当に誰だったのだろうか?」

「この家に誰かいるのかな?」
それと今日寄った金木犀がある家が妙に気になった。行ったのは今日で2回目だというのに、以前から知っているような気がするのだ・・・。
澪は寝付かれない夜を過ごした。

「澪、時間よ。起きなさい!」母親の大きな声が響いた。                

「はあ~い」澪は返事し、慌てて着替えを済ませ朝食のテーブルについた。    
「ねえ、お母さん。昨日変なことがあったの」

澪は朝食のパンを手でちぎりながら、昨日のことを話した。             

「玄関に入って、ただいまって言ったら、奥の方から、お帰りなさいって声がしたの。ねえ、お母さん、私が帰ったとき、家にいなかったよね?」            

「何、馬鹿なこと言っているの。お母さんが居るはずないじゃない。きっと空耳よ。それとも、お隣さんの声じゃない?」

「でも、絶対声がしたよ」

「そんなこと言っていないで、早くしないと学校遅れちゃうわよ」          
「はあ~い」
母親は全く取り合わなかった。                  

「いってきま~す」澪は急いで靴を履くと、足早に学校に向かい歩き始めた。
(絶対、声がしたよ)澪は悶々とした気持ちのまま歩いて行った。        

「おはよう、澪」後ろから詩織の声がした。澪は振り返るや否や詩織に向かって 口を尖らせて話しはじめた。

「ねえ、詩織、聞いて、聞いて」詩織は澪の慌てた様子に驚いて思わず歩く足を止めた。                                 

「澪、どうしたの?何があったの?」 

「ねえ詩織。こんなことってある?きのう家に帰って、ただいま~と言ったら奥から女の人の声が聞こえたの。お帰りなさいって。最初はお母さんがいるのかな?て思ったけど何処を探しても誰もいない。お母さんに聞いても、お隣さんじゃないのと言って取り合ってくれない。私の耳がおかしくなったのかな?」

「澪は最近ボランティアも頑張っているから疲れているのよ。それとも本当に家の中に誰かがいるのかもよ」
詩織は澪の背後に回りオバケのように両腕を澪の肩の上に乗せた。

「やめてよ」澪ははしゃぎながらも目は笑っていなかった。

「ねえ、詩織、それと経験したことがないはずなのに以前同じようなことがあったというようなことない?」
澪は真顔になって金木犀の家に行ったとき、自分が感じたことを詩織に話してみた。

「あるある。それって何とか言ったよね。確かデジャブて言うんじゃなかったっけ?で、それがどうしたの?」と詩織。

「でも本当に変だよね・・・」と澪は言って宙を見上げ、施設の近くの金木犀のある家のことを思い浮かべた。

「朝日の郷の近くに、金木犀が咲いている家があるの。木の塀があって古い家だけど、初めて行ったのに以前から知っていたような気がしたの。これって変じゃない?」
澪は立ち止まり、詩織を真正面に見据えて、やや口を尖らせた。

「別に変だとは思わないけど。それに金木犀なんてあちこちにあって特別珍しいものじゃあないよ。自分だって前にもこんなことあった・・・みたいなこともあるよ」 
詩織は可笑しそうに、澪の鼻を人差し指で突いた。

「そうかなあ」
澪は、まだ納得しないかのように、足元にあった小石をコツンと蹴った。
昨日の声が決して空耳などでないと澪は思った。それに、この間からいつも誰かが一緒にいるという感覚は確信に近かった。今朝も家を出てくる時、玄関で靴がきちんと揃えられていた。澪は行儀が悪いと思いながらも靴はいつも脱ぎ捨てだ。母親に聞いても靴を揃えていないと言う。

「ところで澪。朝日の郷のボランティアはどう?」
ぼんやりとしている澪の視界を塞ぐように顔の前で手を振りながら詩織が聞いた。

「どう・・・て?」

「澪って偉いよ。なかなか続けられるものでもでないよ」

「そんなことないよ。だって友達になってしまえばいいんだもの。友達のことだったら、みんな一生懸命できるでしょう?」

「そもそも、どうしてボランティアを始めたの?澪は小さい頃は本ばっかり読んでいる子だったじゃない」

「そうね~何故かな?自分でも不思議に思っているの。でも一つ思い当たることがあるとすれば、高校に入って部活に吹奏楽部を選んだことかな?ほら1年生の時、学校でチャリティバザーを行ったことがあったじゃない。そのとき吹奏楽部がミニコンサートを開いた。その時、招待した施設の人達が喜んでいる姿をみて、自分でも施設で何かお手伝いすることがあればしてみたいな、て思ったの」

「ふ~ん。そうなんだ。今度私も連れていってよ」

「うん、いいよ。でもどうして行きたいの?」

「どうしてかな。これからの時代、誰でも通る道だからかな?それよりも澪が朝日の郷に行くときは、楽しそうにしているから気になるのかもしれない。ねえ楽しいの?」

「楽しいとか、楽しくないとかと違うよ。自分なんかはボランティアでたまに行くくらいだからいいのかもしれないけど、職員の人達は大変だよ。24時間交代制だし入居している人の中にもいろいろな人がいるから。ほとんど自分で生活出来る人もいれば人の手助けが必要な人もいる。だから皆、必死になって働いている」

「でもね。自分が何か手助けしてあげたとき本当に喜んでくれるの。皆、心の中では家族と離れて寂しいのかもしれない。だから自分を孫のように思ってくれる人もいるし、友達にもなってくれる。その喜んでくれている姿を見ていると私も楽しくなる」

「そうなんだ」
陽菜は澪と一緒に歩きながら、澪と詩織の会話をじっと聞いていた。 
(澪ちゃんは介護施設の仕事を楽しいって言っているけど、正直私にはそんな余裕はなかった。毎日、毎日が辛い闘いだった。切れそうになる緊張の糸を切らさないように、堪え忍びながら過ごしていた。夫はもちろんのこと、誰にも私の気持ちはわからないと思っていた。誰か私のこと、わかってと叫びたい気持ちを心の奥底に押し隠して生活していた。
私が家を衝動的に飛び出したのは何が引き金になったのだろうか?義母の認知症のせいであろうか?それも理由の一つには違いないが、それだけでない気がする。全てを人のせいにしてしまった自分自身に対する怒りだったのかもしれない)陽菜は澪の横顔を見つめながら、そう感じていた。


 澪と詩織と陽菜は校門をくぐり教室のある校舎へ向かった。
授業が終わり、部活も終わり澪は帰路についた。家の玄関のドアノブに手をかけることを一瞬躊躇った。どうしよう、また声がしたら・・・と澪は思ってしばらく家の前に佇んでいたが、いつまでも外にいても仕方ないので、思い切って家に入ることにした。澪は恐る恐るドアノブに手をかけた。

「ただいま」澪はいつもと違い小声で言った。声に出しながら中の様子を伺うかのように目をキョロキョロと動かした。

「誰かいるの~?」「居るんなら堂々と出てきてよ!卑怯者!」と小声でゆっくりと姿の見えない誰かに話しかけた。その様子を見ていた陽菜はおかしくなった。

(澪ちゃん。大丈夫だって・・・。でも私が澪ちゃんの立場だったら同じになると思う。どうしたらいんだろう?そうだ・・・)

その夜のことである。澪は夢をみた。澪が一人で歩いている。やがて金木犀の咲いている家に着いた。そして何故か入口が開いていたため澪は中に入って行った。家の中には誰もいない。庭で話し声がした。澪はゆっくりと近づいて行った。すると庭には父親と母親とおぼしき男女と小さな男の子、そして祖母らしい女性が居て楽しげに話している。子供は金木犀の木の周りを走り回っている。その姿を皆が楽しげに眺めている。そこには何処にでもある日常があった。澪は庭の隅に立ってその光景を眺めていた。

と次の瞬間、場面は一転した。夜が明ける前の暗闇の中に一人の女性がしゃがんでいる。髪の長い女性で先程見た母親らしかった。理由はわからないが、何故かその女性は泣いている。いつまでも泣き続けていた。やがてその女性は立ち上がり、門から出て行った。

「陽菜さん、何処に行くの?」澪は叫んだ。
澪はハッとして目が覚めた。いつの間にか澪の目から涙が溢れてきた。そして泣き続けた。陽菜さんという人なのか・・・?ここにいる人は陽菜さんなのか。何故?澪は眠れないまま朝を迎えた。

「ねえ、お母さん、陽菜という人、知らない?」澪はいつものように朝食のパンを口に運びながら母親に尋ねてみた。 

「陽菜さん?どの辺の人?」

「学校の近くの家で、金木犀がある家。よく、分からないんだけど・・・家を出て行ったとか聞いてない?」 

「そういえば、お嫁さんが家を出て亡くなったという話は聞いたことがあるわよ。学校の近くの新藤さんというお家。お母さんが認知症で息子さんが面倒を見ているらしいわね。でも、何で澪が関心持つの?」

「う~ん、別に」「変な子」

澪は眠い瞼を擦りながら、学校に向かった。澪は陽菜のことを考えていた。何故、澪のところに現れたのだろうか、

「ねえ澪!この前話していた金木犀がある家って何処?連れてって」
詩織は澪に言った。

「うん、いいよ」
澪は学校の裏道を歩いていく。その後を詩織と陽菜はついていく。

「澪、高校を卒業したらどうするの?」

「まだ、よくわからない。大学に進もうと思うけど、何を専攻したら良いのかもわからない。もともと勉強も好きではないし・・・。といって、すぐに就職するのにも不安があるし。詩織はどうするつもり?」

「私もまだわからない。でも、私はたぶん進学はしないと思う。来年になったら就職活動をしなければと思っている。でも働きたいところが見つからなかったら専門学校でワンクッション置くかもしれない」

「ふ~ん。どっちに転ぶにしても不安よねえ~」澪と詩織は顔を見合わせた。
(私は高校を卒業してすぐに働き、あっという間に結婚してしまった。ちょっと早すぎなのかな?)と陽菜は二人の前に出て、話しかけた。ところが、二人は知らんぷり。
陽菜もすっかり友達の一員のつもりでいるのだが、会話が成り立たない。
(まあ、仕方がないか)
陽菜はそう思いつつも、二人と一緒にいると気持ちが晴れ晴れとしてくるのを感じていた。澪の気持ちが陽菜に伝わってきているかのように・・・。

「ここを左に曲がって中に入るんだよ」
澪は先頭に立って集落の中に入っていった。金木犀の香りが漂ってきた。

「ここだよ~」澪は立ち止まり自慢そうに少しおどけて指差した。

「へえ~ここかあ・・・ほんといい香り・・」
詩織はこれ見よがしに鼻をピクピクさせた。

「ここから中を覗けるんだ」と澪は木の塀の隙間に目をくっつけた。

「澪!まずいよ。それじゃあ覗きだよ。変に思われちゃうよ~」
詩織は慌てて澪の腕を引っ張った。詩織に腕を引っ張られて転びそうになった澪は、門についている表札が目に入った。新藤祐一・・・やっぱり、ここが新藤さんの家だったのか。尚も見ていると同居欄に陽菜と書いてある。

「アッあった!」澪は思わず叫んだ。
(陽菜さんはここに住んでいたんだ。夢の通りだわ)

「ねえねえ詩織!わかったよ。このあいだ家の中で声が聞こえたという話・・・この家に住んでいた陽菜さんという人だったんだよ。ここを見て!」澪は表札を指差しながら昨日見た夢のことを詩織に話した。

「澪、不思議なことがあるね。どういうことなの?何故ここに住んでいた陽菜さんという人が澪の夢に出るの?」と詩織は澪と表札を交互に見比べながら言った。

「それは私にもわからないけど・・・」
澪と詩織のやり取りを後に陽菜は庭に立っていた。

(今日も誰もいない・・・・。どうしたんだろう?健一は保育園かな・・・?)
(祐一は大丈夫かな?大丈夫じゃないよね。庭がこんなに荒れているもの・・・。本当にごめんなさい)
雑草が伸び続けている庭に佇み涙が溢れて仕方がなかった。
朝日の郷に行く時間になり、澪と詩織は金木犀の家を後にした。陽菜も下をうつむきながら二人の後をついて行った。

「ねえ澪。澪は死後の世界ってあると思う?」と詩織は歩きながら言った。

「はっきりと分からないけどあると思う。小さい頃、お婆ちゃんに話を聞いていたからかな。それと、お婆ちゃんが亡くなった後、一度お婆ちゃんに会ったことあるよ。寂しくて仕方なかったとき、夜中に目が覚めたら、お婆ちゃんが部屋の中に座っていたの。何も言わなかったけど、にこにこ微笑んでいた。言葉は聞こえないけど、大丈夫だよと言っているように感じた。だから、もしかして、陽菜さんが現れても不思議ではない。そう思うんだ。でも、何故、澪のところに現れたのかな?」

「それはわからないけど・・・。死ぬってどういうことなんだろうね?本当に死後の世界があるのかな?それがわかったら生き方そのものも変わるかもね」

「そうだよね。そういう世界があるのなら、逆に今、こうして生きているってどういう意味があるのかな。あっという間の人生だから、大切にしなければいけないのかも。二度と来ないこの日だから・・・」
陽菜は澪と詩織の会話を聞きながら思った。

(そうよね・・・。確かに生きている時に知っていたら、もう少し後悔しない人生を歩めたのかもしれない。といって知っていたら逆に落ち込んでしまうこともあると思うし。どちらがいいとは一概に言えないのかも知れないけど・・・私は知っていたかった・・・)

 「朝日の郷」の門が見えてきた。既に7月半ばを過ぎ、梅雨も終わり、肌を突き刺すような夏の太陽が三人の上に降り注いでいる。澪も詩織も汗だくになっていた。陽菜は暑くもなく、汗もかかなかった。
(二人とも暑くて大変ね。そのことだけは体がなくて助かったわ。でも暑いときは暑いと感じ、寒いときは寒いと感じる。これも大切なことかもしれない)
陽菜は少しだけ二人を羨ましく思った。
三人が欅並木に入ると頭上を覆いつくすように茂った葉の間から涼しい風が頬を掠めた。澪と詩織は思わず立ち止まった。

「涼しい」

「気持ちいい」
二人はハンカチで団扇のように顔をパタパタとあおいだ。

「この場所を離れたくないね」

「本当だね」
二人は足に根が生えたように、その場所をしばらく動けずにいた。しかたなく、一緒にこの場所に留まることにした陽菜は思った。

(生きていた時には自然のことを特に意識したことはなかった。でも、このような立場になってみると、自然は美しいものだなと改めて思う。ここにある欅の木一本を見ても、その形も全く無駄のないものに思え、若葉の薄い緑色も暑い夏の濃い緑色も、そして秋の赤く染まった紅葉も全てが美しく見える)
3人はその場を離れ、玄関から中に入っていった。
ロビーに入るとすぐに門倉さんが寄ってきた。

「澪ちゃん、いらっしゃい。今日は友達と一緒なの?若い人はいいねえ。仲良し三人組か」

「門倉のおじいちゃん、こんにちは。今日は友達の詩織を連れてきたの。三人組でなく仲良し二人組よ」

「えっそうなの?そちらの人は友達じゃあないの?」門倉は陽菜を指さした。
「門倉さん二人でしょ。門倉さんはいつも冗談ばっかり」
門倉さんの車椅子を押していた介護職員が微笑みながら言った。
(この人には私の姿が見えたのね。もしかして、こちらの世界に来るのが近いのかも)陽菜は思った。
二人は事務所受付に行くと介護福祉士の千賀子が顔を見せた。千賀子は澪に挨拶しながら、隣に立っている詩織に視線を移した。

「千賀子さん。今日は友達を連れてきたの。親友の詩織」
澪が詩織を紹介する。

「始めまして河合詩織です。よろしくお願いしま~す」

詩織が大きな声で元気よく挨拶する。周りで立ち話をしていた職員達がその声に驚いたように振り向いた。思わず詩織は自分の口を両手で塞いだ。

「詩織はクラスも同じだし部活も吹奏楽部で同じなんだ」
澪が詩織を紹介した。

「こちらこそお願いします」と千賀子が詩織に視線を移し言った。

(私も紹介して欲しいな。でも仕方ないのよね)と陽菜。

「利枝さんはロビーにいるわよ」千賀子はロビーを指差した。

「あっ!いたいた。」澪はすぐに利枝を見つけたようだ。

「詩織、ここではあまり大きな声を出さないでね。入居者の人がビックリしてしまうから」と澪は詩織に一言注意した。

「利枝さん」
澪が利枝に近づき背後から声をかけると利枝も気がついたらしく振り返った。

「あら・・・澪ちゃん」
利枝は一緒にいる詩織に視線を移した。

「お友達?」

「うん親友の詩織」
詩織は少し恥ずかしそうに利枝にペコリと頭を下げた。

「詩織ちゃん、よろしくね」

「こちらこそお願いします」

「澪ちゃんにはいつもお世話になっているのよ。それに若い人が来てくれて嬉しいわ。私も元気になれるから」利枝は詩織に向かって言った。
詩織は「はい」と返事をしながら視線をロビーに移しキョロキョロと見回している。

「意外と広いんだ」

「そうよ。ここは環境もいいし、とても恵まれていると思う。私もゆったりとした気持になれるの。それにスタッフの方もいい人ばかりだし」と利枝は言った。

「ここではたまにイベントがあり、コンサートも開かれるのよ」
コンサートと聞いて詩織と澪は顔を見合わせた。

「利枝さん。コンサートってどんな人が来るの?」

「いろいろよ。プロの方もいるし、大学生がピアノとかバイオリンなどの演奏をすることもあるし、そうそう、「お笑い」なんかもすることもある。楽しいわよ。この時は入居している人の家族も来る。とても賑やかで楽しいわよ」と利枝は目を輝かせてその様子を話して聞かせた。
(そうか・・・。家族も来るのか・・・。それが一番楽しいことなのかも)と澪は利枝の嬉しそうな顔を見て思った。

「ねえ・・・澪。どうかな自分達も何か出来ないかな?」と詩織は澪の耳元に小声で囁いた。

「私もそう思ったんだ」と澪は目を輝かせた。

「ねえ、利枝さん!自分達も演奏してもいいのかな?」
澪が利枝に尋ねた。利枝はちょっと驚いた表情を一瞬見せて「わからないけど・・・でも出来たらいいわね。それっていい考えだと思うわ。事務所で聞いてみたら?」と二人の顔を交互に眺めながら言った。
澪と詩織は事務所に向かった。

「佐々木さん、すみません」澪は窓口にいる千賀子に声をかけた。

「澪ちゃん何?」

「実は私達、学校の部活で吹奏楽をしているんです。それでここで演奏など出来ないかなって思って。どうでしょうか?」

「ちょっと待って。事務長に聞いてみるから」
千賀子は受付のすぐ後ろの木製の扉を開けて奥に歩いて行った。遠くで話し合う声が聞こえた。5分程して50歳過ぎと思われる、白髪混じりの恰幅の良い男性が姿を現した。

「どうぞ中に入って下さい」とその男性は受付にいる澪と詩織を手招きした。
「おじゃまします」と小さな声をかけて、澪と詩織と陽菜は事務所の中に入っていった。

事務所は意外と広い。事務机の間を通り抜け、一番奥にあるソファーに通された。初めて見るような大きなソファーで、澪と詩織は緊張し並んで腰をかけた。ふかふかで腰が深く沈む。陽菜は後ろに立つことにした。

「松浦 澪です。こちらは友達の詩織です」

「河合詩織です」

「あなたが澪さんか。いつもありがとう。一生懸命何でもしてくれるってスタッフにも評判だよ」と言いながら澪と詩織に名詞を差し出した。
名詞には「事務長 田崎和郎」と書いてある。

「ところで施設の中で楽器の演奏をしてくれるとのことですが・・・」
事務長の田崎は二人に向かって微笑みながら語りかけた。

「はい。実は私達、学校の部活でブラスバンドをしているんです」

「ブラスバンドというと?」

「吹奏楽部で私はクラリネット、澪はフルート」と詩織が答えた。

「ほ~・・・」田崎は感心したように頷いた。

「実は、ここはご存知のように介護施設で自由に歩いて動きまわれない人がほとんどです。車椅子では一人で動ける人もいるのですが、外出となると身内の人が一緒でないと無理で正直退屈していることが多いんです」
田崎は続けた。

「そこで施設では出来るだけ退屈しないようにと、またリハビリの意味も込めて本なども用意したり、演奏会や劇などのイベントも定期的に行っているんです。それもほとんどボランティアですが。ですから楽器演奏は大歓迎ですよ。ただ、専用のホールがないため、このロビーを整理して行っているので大人数は無理ですが・・・」澪と詩織を交互に見つめながら話した。

「どのくらいの時間が可能でしょうか?」澪は質問した。

「高齢の人が多いので、長い時間ですと疲れてしまいますので、大体40分程でお願いしています。それと1ヶ月前にスケジュールを組みますので、早めに出していただければ予定に入れますが・・・」と事務長の田崎はスケジュール表に目を通しながら答えた。

「ありがとうございます。学校で部長や顧問の先生とも相談してみます」
澪と詩織は頭を下げた。

「何か急に楽しくなってきたね。」澪と詩織は笑顔で顔を見合わせた。
(ようし、私も頑張ろう)と陽菜。

施設からの帰り道、澪と詩織は歩きながら、話し合った。

「どんな風に先生に話したらいいかな?」

「ボランティアだから先生も賛成してくれると思うよ。ただ、秋にはコンクールがあるからそれまでは駄目かな?」

「でも全員で行くわけでもないから先生も許可してくれるんじゃあないかな?後は部長ね。それと一緒に行ってくれる人も捜さなければね・・・」
道沿いに賑やかな声が響く。

 翌日のこと授業が終わり部活の練習に入る前、顧問の小林先生に澪と詩織は相談することにした。部活顧問の小林先生の専門は地理だが、先生自身、学生時代に吹奏楽部で活動していたため、自ら申し出て顧問になったのだった。50代後半で定年も迫ってきたが、コンクール入選を目指し、毎日のように部活に参加し、生徒からの信望も厚かった。

「先生、相談があるんですけど・・・」澪が最初に声をかけた。

「松浦、相談て何?」小林先生は課題曲の楽譜を手にしたまま言った。
実は・・・と澪は言いながら助けを求めるように詩織の顔を見た。
小林先生は視線を詩織に移した。

「澪ちゃんがボランティアで朝日の郷に行っていることは先生もご存知だと思いますけど、昨日、私も一緒に行ったんです。そしていろいろ話を聞いていたら、ボランティアで時々催し物を開くと聞いて、私達もお手伝いできるかもと思い、事務長さんに相談してみたんです」と言いながら事務長の田崎の名詞を手渡した。

小林先生は名詞に目を留めたまま、具体的に何をしたらいいのと言ってから澪と詩織の顔を交互に見た。
澪は小さな咳払いを一つして、事務長との話の一部始終を先生に伝えた。
「40分間くらいなら、演奏してもいいそうです。スケジュールに入れる必要があるから、日時とか曲名などの具体的内容を早めに伝えて欲しいとのことでした」

「それは、とてもいい話だと思うけど、部長や皆の意見を聞いてみないとね」と言って部長の川辺由香を呼んだ。

「川辺、ちょっと来てくれないか」

「先生何でしょうか?」と部長の川辺は澪と詩織をちらりと見やりながら顧問の小林先生に尋ねた。

「実は河合と松浦から話があって。学校の近所にある「朝日の郷」という施設でボランティアで演奏会を開けないかという相談を受けたんだけど、川辺はどう思う?」と部長の川辺に意見を求めた。
川辺は右手をしばらく頬に添えていたが、顔を上げて小林先生に向かって言った。

「ボランティアで演奏することは、とてもいい話だと思いますし、実際いろいろな団体が演奏会を開いているという話も聞きますが、コンクールが迫っていますし、また、そのための練習もしなければなりませんし、時間的にどうでしょうか?」

「うん。確かに川辺の言う通りだよね。でも大規模なものでなくて、時間も40分以内で少人数でかまわないということらしいんだけど、どうかな?」

「それならばコンクールの出場メンバーを除いて、10名程でよかったら可能だとは思いますけど」川辺は言った。

小林先生は頷き「そうしたら川辺の方で参加メンバーとか演奏する曲名を調整してもらえるかな?」と言うと「わかりました」と川辺は答えた。

 川辺を中心に話し合った結果、澪と詩織を含め一年生と二年生の10人が参加することになった。3年生は最後のコンクールということで、参加せず、コンクールの練習に専念することになった。施設には高齢者が多いため曲名も童謡など親しみやすい曲にした。

「さあ忙しくなるね」と澪と詩織は顔を見合わせた。
(私も楽しみだわ)陽菜も思った。

 澪をはじめとするボランティア演奏会参加メンバーはコンクールの練習が終了後、生徒が帰った後の教室を利用して練習をすることとなった。演奏会までは、おおそ一月。決して充分といえない時間ではあったが、放課後の時間を利用し練習を重ねた。
1週間程して、澪と詩織は「朝日の郷」に報告を兼ねて訪問した。
施設に入ると少しざわついている。

「千賀子さんこんにちは」

「ああ、澪ちゃんいらっしゃい」

「千賀子さん。何かあったんですか?」

「実はね、昨日のことだけど、門倉さんが亡くなったの」

「えっ門倉のおじいちゃんが・・・」

「そうなの。急だったんだけど、何とかご家族は間に合って良かったんだけど」

「そうなんだ。今度の演奏会も聴いて欲しかったのに・・・」
(やっぱりね。こればっかりは仕方ないよね、澪ちゃん。でも、まだこの施設には留まっているわよ。いつもの場所に。演奏を聴くように話してみるわ)陽菜はロビーの隅に立っている門倉をみとめた。

  澪は門倉がいつもいた入口付近を見て寂しく思った。当然の如く、門倉の姿は澪には見えない。元銀行員で現役時代は地方銀行の役員として活躍していた門倉は車椅子を使ってはいるものの、足腰は丈夫らしく、いつも起き上がって外に行こうとしていた。迎えはまだかと言って職員を困らせていたことが懐かしい。門倉は仕事の話となると、本当に楽しそうであった。長い人生の中でも、銀行員時代が良い思い出として残っているのだろう。そのような門倉を澪は、羨ましいとも思った。
認知症と診断されているが、辛く、嫌なことは忘れて、もしも楽しいことだけを覚えているとしたら、その人の人生はこれ程素晴らしいものはない。幸せの感じ方は人それぞれである。それは本人の問題なのだ。本人が幸せならば、幸せなのだ。その幸せをもって旅立つ。忘れることは辛いことではあるが、その実、人生の終焉を祝しているかのような、神様のプレゼントかもしれないと澪は感じ始めていた。
その思いは共にいる陽菜にも伝わった。陽菜は思った。(義母さんも同じに違いない。心の紐を解いてみれば、楽しい思い出が詰まっている。そうなのだ。自分が生きていたとき、もう少し、思い出話を聞いてみればよかったな。そうしたら、もう少し、義母のことを理解できたかもしれない)

 夏休みも終わりに近づいた8月末の日曜日に演奏会が行われた。時間は10時からだったが、準備のため澪達は8時頃「朝日の郷」に向かった。施設に着くと事務長の田崎さんをはじめスタッフの方々が玄関の外に並んで出迎えてくれた。

「今日は本当にありがとうございます。入居者も大変楽しみにしています。」と田崎が代表して挨拶した。

学校からは顧問の小林先生が同行し事務長の田崎に挨拶した。
 ロビーに入ると既に椅子などの備品が演奏会用に片付けられていて奥に小さなステージが用意されていた。一行は楽器を取出し音合わせの準備に入った。フルート、クラリネットはじめサックスそして重厚な音色のユーホニュームなど多彩な楽器が用意され音出しを始めた。

10分ほどで準備OKとなり、入居者が続々と集まってきた。自分で車椅子を動かしてくる人やスタッフに車椅子を押してもらう人、それに家族を含め130名程が参加し演奏会が始まった。

演奏の前に小林先生が曲名紹介を兼ねた簡単な挨拶を行った。澪もステージの上に用意された椅子に座り会場を見渡した。後ろの方で利枝がニコニコしながら手を振っている。澪も手を振り返した。

演奏が始まった。「ふるさと」が会場に響き渡る。その柔らかい音色に皆静かに聞き入っていたが、後ろの方で「うさぎ追いし・・・・」とスタッフの方が入居者にあらかじめ配っていた歌詞カードを手に歌い始めたところ、一人二人と小さな声で歌い始め、やがて会場全体に歌声がこだました。楽器の演奏と歌声が調和し皆楽しそうに笑顔で声を出していた。その後、民謡や演歌なども交え40分間の演奏があっという間に終了した。

「澪ちゃん。良かったわよ。ありがとう」利枝が笑顔で近づいてきた。
千賀子はじめスタッフの方々も次々に感謝の言葉を述べた。

「澪やって良かったね。」と詩織。

「本当、大成功ね。楽しかった」
澪や詩織をはじめ参加した部員全員が紅潮した顔をしている。
(本当に楽しかった。みんな喜んでくれてよかった。こんなように演奏できるなんて思ってもみなかった。ありがとう澪ちゃん)陽菜は一人呟いた。

<新たな旅立ち>


 
 翌日のこと。授業が終了し澪が部室に行くとワイワイガヤガヤと皆が大騒ぎしている。

「みんな騒いでどうしたの?何かあったの?」澪も輪の中に入った。

「あっ、澪これを見て!」
部員の一人が写真を差し出した。昨日の「朝日の郷」での演奏会の写真らしい。
澪はその写真をみて「あっ」と大きな声を上げた。
最後に記念写真を撮ったのだが、澪の横に見知らぬ女性が立っている。右手にはトランペットを握って・・・。

「この人誰?」

「施設のスタッフじゃないの?」

「そんな人いなかったよ」

「やだ~これって心霊写真じゃあない?」

「でも全然気味悪くないよ」

「それにこの人、奇麗ね」
皆口々に声を上げる。

澪は写真に写っている人を見て懐かしい気持ちになった。この人が陽菜さんなんだ。澪は思った。
(私、カメラに写ってしまったのね。まさか自分が心霊写真になるとは・・・。でも奇麗だって・・・。それに澪ちゃんも怖がらなかったし・・・)

 その夜のこと。澪は夢を見た。再び夢の中で陽菜の家の庭に立っていた。と、目の前に陽菜が現れた。

「陽菜さん?そうでしょ、陽菜さんでしょ」

「ええ、初めましてというべきよね澪ちゃん」

「私、陽菜さんとお話したかった。陽菜さんは本当に亡くなったの?それに、どうして澪の前に現れたの?」

「私、既に死んでいると思う。思うというのは死んでいる実感がないのよね。澪ちゃんも知っているように、私、この家に住んでいた。でも、ちょっと疲れちゃって家出しちゃったの。お義母が認知症になり、世話をしながら、夫と子供の面倒をみていたけど、誰にも相談出来ずに全て背負ってしまって自分の中で限界だったのかも・・・。自分ひとりで出来ることは限りがあるから、もっと人に相談するべきであったと思う。でも、心に余裕がなかったのよね」

「陽菜さん、私、以前にも夢をみた。それは陽菜さんが泣いている夢だった。金木犀の木の下に蹲って泣いていた。その夢をみて私も悲しくなった」

「澪ちゃん。誰も好き好んで家を出て行こうとする人はいないわ。夫もいるし、子供もいる。家族を置いて出て行こうなんて、誰も思わないわ。それでも、私は耐えられなくなってしまった。どうしたら良かったのか、今でも毎日考えている。でも結論はでない。でも、澪ちゃんといると本当に楽しく、温かい気持ちになる。そのことが嬉しいの。澪ちゃん、言っていたでしょう、皆、喜んでくれるって。もちろん、施設の入居者の方にも色々な人がいるから、十人が十人、喜んでくれるとは限らないけど、家族のように思ってくれる人もいるって。そうよね、私も義母の話をもう少し聞いてあげれば良かったのかもしれない。今、後悔していても仕方ないのかもしれないけど」

「陽菜さん、何故、私のところに来たの?」

「澪ちゃん、金木犀がある私の家に何度か来たでしょう?あの時、私もいたの。私、最初、死んだという事実をなかなか受け入れられなかった。そうしたら、既に亡くなっていた母が目の前に現れた。そして言ったの。もし、後悔していることがあれば、生きている人を助けてあげなさい、って。そうすれば、その人が感じたことを、同じように感じられるから、と母が言っていたの。私、介護を途中で投げ出し家出してしまったことが、負い目になっていた。そのことが、苦しくてたまらなかった。そして、澪ちゃんに出会ったとき、金木犀が澪ちゃんについていきなさい、て言っているかのように思えて、澪ちゃんについて行くことにしたの。澪ちゃんにしたら、迷惑だったと思うわ。ごめんなさい」

「迷惑だなって、そんなことないです。それに、私が一生懸命に介護のボランティアをしているというのも違うと思う。私は不安なの。何かっていうと、自分が将来、何をしたいかも分からない。先が見えないの。その不安を紛らわすために、介護のボランティアをしているのかもしれない。頑張っているのは職員さん達。私はまだまだ甘えているだけ、という気がする」                                  

「澪ちゃん。不安のない人なんていないと思う。でもね、私、澪ちゃんと一緒にいると何故か温かい気持ちになる」

「それで朝日の郷で演奏会をしたとき、陽菜さんも一緒に演奏して下さったのですね」

「ええ、私も高校生のとき、吹奏楽部に入っていたの。これでも、東京都の大会で金賞になったこともあったのよ」

「そうなんだ」

「澪ちゃん、私ね、澪ちゃんと一緒にいて、本当に楽しかった。澪ちゃんがボランティアを一生懸命にしてたことで、私も同じ気持ちになれたし」

 陽菜は澪と一緒にいることで、次第に穏やかな心を取り戻していった。やがて夏も過ぎ、季節は秋となり、木々の葉も黄色や赤色へと衣替えしていった頃、澪はいつものように「朝日の郷」の門をくぐった。陽菜も一緒だった。
ロビーに向かうと介護福祉士の千賀子が車椅子を押しながら澪に近づいてきた。車椅子に座っているのは利枝とばかり思っていたが、よく見ると見知らぬ人が座っている。初めて見る顔だ。利枝と年恰好も似ている白髪の女性だ。

「澪ちゃん。紹介するわ」

「今度ここに入居するようになった幸子さん」

「初めまして松浦澪です。よろしくお願いします」と澪は挨拶した。すると幸子は澪に向かって口を開いた。

「陽菜さん、来てくれたの。ありがとう嬉しいわ」

「この子の名前は陽菜でなくて澪ちゃんよ」と幸子の肩にそっと手を添えて千賀子は言った。

「ごめんなさいね澪ちゃん。幸子さんは時々思い違いすることがあるの」と澪を振り返って小声で囁いた。

「何言っているの!陽菜さんじゃない」と再び幸子は声を荒げて言った。

千賀子は困り果て澪の方を見ると澪は涙を流している。

「本当にごめんなさいね澪ちゃん」と千賀子。

「違うの。何故だか分らないけど涙が止まらないの。嬉しい訳でも悲しい訳でもないのに涙が次から次へと溢れてくるの。どうしてだろう?」
澪は頬を流れ落ちる涙を手で拭った。

(お義母さん・・・ごめんなさい。私出来なかった。私が足りないばかりにご迷惑かけてしまって。祐一にも健一にも・・・)

「いいのよ。仕方ないもの・・・私こそごめんなさい。結局私甘えてしまったのね。決して陽菜さん、あなたが悪かったわけじゃないわ。あなたの気持ち分らなくて・・・辛い思いさせてしまって・・・」

幸子が何を言っているのか、誰と話しているのか千賀子には全く分らなかったが、幸子が話していることに耳を傾けていた。(話に出てくる陽菜という人、確か亡くなったお嫁さんじゃなかったかしら。澪ちゃんのことを思い違いしているのかもしれない。でも、幸子さんがこんなに熱心に話しているのを初めて見た)

やがて、澪の涙も止まり笑顔が戻ってきた。
幸子の車椅子を千賀子が押して行こうとしたが、「私に手伝わせて」と澪が千賀子に代わって押し始めた。もちろん陽菜も手を添えていた。
澪はとても楽しそうだし、幸子も楽しそうに微笑んでいる。

「幸子さんがこんなに喜んでいるのを初めて見たわ」千賀子は幸子の様子に驚いた。

(一番気になっていたお義母さんと話が出来て良かった。お義母さんには私の姿が見えたのね。すっかり老け込んでいたけれど、元気そうな様子で少し安心した。私が生きていた時、認知症になる前にも後にも、あんなにも幸せそうな顔をしたお義母さんを見たことがなかった。お義母さんに会えて本当に良かった。お義母さんが認知症になったときは、私だけが何故こんな目に遭わなければならないのかとの思いに囚われ、心に余裕が無くなり家を飛び出してしまったけれど、辛いのはお義母さんも、それに祐一も一緒だったのに。生きていたときに澪ちゃんのような子に出会っていれば違っていたのかもしれない)

(お母さん、後悔が全くないといったら嘘になるかもしれないけど、私にはすることはもう何もないように思う。澪ちゃんと一緒にいて、生きていたときには感じられなかった安心感というか、充実感を感じることが出来た。私はお母さんがいる世界に戻ろうと思う。これからどのような人生が待っているのかはわからないけど、新しい世界で自分なりに精一杯生きていこうと思う。何時の日か祐一も健一だって来るだろうし、その時、もう一度やり直せる気がする)

陽菜は澪と離れるときが来たと思った。

陽菜が幸子と話した帰り道、澪が施設の中の欅の並木を歩いていると突然に強くはっきりと声が聞こえた。

「澪ちゃん、ありがとう」
澪は慌てて振り返ったが、そこには欅の落ち葉が舞っているだけだった。

「今の声・・・誰だったんだろう?きっと・・・そうよね・・・」

澪は再び歩き始め、前を向いたまま、右手を後ろに向けVサインを送った。

「大学で福祉のことを学んで朝日の郷で働くのも悪くないかもね」

澪の落ち葉を踏みしめる音が軽やかに響く。

#創作大賞2023 #ファンタジー小説部門

私が書く文章は、自分の体験談だったり、完全な創作だったり、また、文章体も記事内容によって変わります。文法メチャメチャですので、読みづらいこともあると思いますが、お許し下さい。暇つぶし程度にお読み下さい。今後とも、よろしくお願いいたします。