はじめに

「記憶をほとんどその日に置いてくる私ですが、出会ったときの季節、景色を今でも思い出せます。それは私の見ている景色をいつもより色とりどりにしてくれる人でした」

これはとある女性タレントの結婚報告でのコメント。この文章を目にした時、私は春風の突風に吹かれた。

その日は夏の暑い日、閉じた電車内で通過電車を待っていた。それでも確かに私の髪は桃色を帯びた突風に激しく煽られ、ひらけた視界には青空と緑の小高い丘の間に模範的な木が一本立っていた。

このように私は惹き込まれる文章の一節や音楽に触れたり見えなかったものに気付いたりすると、網膜に映る景色とは別にもう一つ、視野がひらける。ひらけた気がするのではない、確実に視える。
これは個体差なのか、はたまたすべての人類が持つものなのか、それが気になって仕方ない。少なくとも私だけが持つものではない。そんな特別や存在だとは到底思えない。

一体ここはどこなのだろう

私の仮説はこうだ。
きっとここは自分の肉体が置かれている次元(以下、共有の次元とする)の近所で、特徴として理や法則が若干違う。
この次元は個が有するものなのか、OneDriveのように共有されているものなのか。
私は前者ということにしている。なぜなら視えるものが人によって違うから。(そしてそれを以下、固有の次元とする)

固有の次元は時に、連続性のないはずの共有の次元の干渉を受ける。
それこそ先に記したものたちだ。
この世に溢れる詩や音楽は、きっと作者固有の次元で起こっている事象を肉体を有する共通した次元に書き写しているのではないか。
データは重いほど書写しに時間がかかり、その過程の負担が過ぎるとエラーが起こる。辻褄が合いすぎてはいないか?いや、だからこそ辻褄か。

共通の次元を媒介して他人の固有次元が私の固有次元と共鳴する時、視野が強制的に開かれるのであろう。
春風が吹く場合もあれば、電流が走ったり恐怖に心臓を掴まれてスタートする場合もある。どのみち、共通次元で見たこともないような何かが明瞭に現れる。

文章や音楽は作者の断片そのもの
ファンタジー漫画でさえ、作者にとっては固有次元での現実

不連続で突発的に固有次元が書き写されるこの世界の混沌は不平等や理不尽も共に咲き誇る。

このタイミングで自己紹介をさせてもらうと、私はかなり真面目で誠実寄りな性格だと思う。
逆境に耐えて強くなってきた。しかしなぜか誠実と偏屈が矛盾してでもつるんでいる。だから逆境に対してかなり思うことがあり難癖をつけていても、実はあまり嫌いではない。
「逆境万歳」と「まぢ無理…」が同時に来られると流石に私も混乱してしまう。そんな曖昧で割り切れない性格。

比較的綺麗だがまっさらではない私固有の視野が最近情報過多でパンクしそうなので、バックアップしつつデータ整理をしようと思う。

私自身の断片を産み落とすことになるが、もしそれが誰かの糧になるのなら

誰かにも春風を吹かせてあげられるのなら
私にとってそれ以上の幸せはない

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