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魚類はいない!? 嘘だと言ってくれ|自然を名づける|Review

『自然を名づける――なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか』
キャロル・キサク・ヨーン著、三中信宏・野中香方子訳、NTT出版、2013年
レビュー2019.01.06/書籍★★★☆☆

私いま仕事で natural history について調べているんです。それでどこかの書評でおもしろそうだと思ってこの本を読みましたが、星三つですね。とくに最後の二章は主題へのこだわりが強すぎるので、ないか、あとがきとして短くしたほうがすっきりしますね。

ダメだしから入りましたが、書評へゴー!

◆気になるワード
生物分類学/環世界センス/種とは何か/600という限界/分岐学/魚類は存在しない/重みづけ

◆学んだこと
人類の持つ自然に対する天賦の能力が、著者の言う「環世界センス」。ありていに言うと「自然への共感」とか「自然の一部としての私」とかになるだろうか。人類はホモ・サピエンス段階でも20万年くらいは自然の中で狩猟採集生活を送っていて、周りの自然を名づけてきたのだ。生き物を分類する能力が先天的に備わっている。生得的機能だと著者は言う。

分類学の父、カール・フォン・リンネは、環世界センスの“塊”のような人だった! ラテン語で属名と種名を組み合わせた二分法を発明したのだが、これにより世界中のそれぞれの言語で呼ばれていた同じ動植物を、単一の種として正確に記述できるようになった。

分岐学の立場では、魚類という分類群は科学的ではないらしい。なぜなら魚類はあるひとつの共通祖先から出た生物群(単系統)ではないから。おいおい、そりゃ直感的におかしいやんけ、っていうのが著者の立場(だと思う)。

生物を分類するのは脳の左側頭葉で、ここを損傷した人は、他の識別能力はなんともないのに、生物やそれを素材とする食物だけわからなくなってしまう。

人間の生物に関する分類のキャパは600くらい。世界中の先住民族の民俗分類も、生物学者がいっぺんに思い出せる量(界門綱目科属種のうちの属)もだいたい600。産業革命以前の一人の人間が生きる自然界では、それだけ分類できれば十分だったからというのがその理由だ。

◆よくわからなかったこと
分岐学はなぜそんなにとんがる必要があるのかが不思議。側系統群の独立を認めないことが伝統派との対立点だとしたら、譲歩する余地はおおいにあるのではないだろうか。あるいは本文中にも確かあったと思うけど、伝統的分類学は自然科学をやめて、社会科学か芸術になってしまってもいいんじゃない?

分岐学も分子分類学も数量分類学も、進化分類学やそれ以前の伝統派が重視する重みづけを行わないが、著者の論点はこの重みづけにこそわれわれの環世界センスが表出するとも読める。それでいて、重みづけを言語化する、あるいは見える化する方法をこの本は示していないし、読者に情緒的に訴えるばかりなところはマイナスかな。私自身も仕事でよくやってる重みづけだから、理論武装のヒントがほしかったところ。

界より上位のドメインとして細菌・古細菌・真核生物に分けたのはカール・ウーズ。リボソームRNA遺伝子の解析によって見出されたこの3ドメイン分類は、いまだに私の環世界センスにはしっくりこないが、古細菌なんかとはDNA情報が遠く離れてしまったせいなのか? でも系統樹をみると、遺伝子的には古細菌は真核生物に近いことになるし、なんだかわからんとよ。

◆最後に一言
人間は生物界を分類・命名せずにはいられない。これは人類のかなり原初的なリビドーであるだけでなく、他の動物とも共有している感覚なのではないか、というのが感想です。ポケモン探しや服とかバッグのブランド品集めでも代替できるけど、やっぱり自然界であなたの環世界センスをしっぽり取り戻そうよ、と著者は言ってます。

(過去サイトから転居してきた文章をベースに書いてます。)

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