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友よ、働かない自由がほしい|Essay

これは僕がニート寄りのフリーターだった頃に書いた文章です。少し俗世に流されすぎましたが、僕は本来、勤労を熱望しない人間なのです。


市場原理主義は、西欧起源の労働観は、近代的自我は、社会の常識は、つまり言い方は何であれ、1995年の3月22日の深夜、30年目の春を往く日本人の僕に、4秒間の深いため息をつかせる得体のしれない圧力は、暴力的に正直者を襲う。

たいした世の中ではございませんか。この歳で定職につかず家でボンヤリしながら生きるという太平楽を、今の日本の社会はまったく認めてくれない。それはいけないこと、恥ずかしいこと。おかげで僕は毎日罪の意識に苛まれながら、昼と夜をスウェーバックでかわしている。

人々はむやみに労働の美徳を説く。それというのも、働くことが何かを生み出すと機械的に信じ込んでいるからである。けれども実のところ、それは生産活動というよりむしろ、迫害された消費である。時間という資源を売却することで、労働者は賃金を得ているにすぎない(註:いまならそれをブルシットジョブといいますね)。

時間は規則正しく流れるから、それを食って生きる労働も正確に組織されなければならない。その結果、労働は強制となる。そしてシステムは循環し、人々は働くことで均質に流れる時間を創造するのである。

ここに働かない男たちがいる。モロッコを歩いていると、何をするでもなくカフェに腰かけて、通りの往来をひねもすただ眺めているだけの人の視線に出会う。彼らは仕事がないから働いていないのだが、だからといって焦るふうでもない。そもそも彼らは時間を換金するという意識も無意識ももたないから、時間の経過に無関心である。時間という概念自体が欠けているようにもみえる。

しかし、もしそうだとしても、それは幸福な欠如である。記憶されない誕生日は、年齢という束縛を解き放つ。記憶されない命日は、生と死の境目をぼかして実存に永続性を与える。

日本人のように、時間を「費やす」人々の生はあわただしい。早く働かなくてはいけないし、効率的に働かなくてはいけない。ミヒャエル・エンデの『モモ』が好きだと言う人でも、モモのようには生きてはいない。時間泥棒と戦ったりはしていない。戦っているのはライバル企業だったりするから、ノルマが増えて余計に忙しくなる。

ゆっくりした時間とともに生きる―—そんな時代に・そんな場所に生まれたかったとつぶやきながら、僕は今日も求人雑誌を嘆息まじりで眺めている。

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