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ダイナマイト・キッドをさがして|Episode

「俺たちダイナマイト・キッド世代だ!」と胸を張って言おう。
「推し」っていうのとはちょっと違う。
個人を超えて、世代として好きだという感覚があるんだよなあ(もちろん皆ではないが)。

爆弾小僧ことダイナマイト・キッドは、1980年代のプロレスシーンの寵児。刃物のような技の切れ味とプロフェッショナリズムは、多くのプロレスファンや後続のジュニア・ヘビー級レスラーに大きな影響を残した。

【出典】週刊プロレス

えっ? なぜいまダイナマイト・キッド? と思うでしょ。
『アントニオ猪木をさがして』を見たからかな?
それとも、『ワンピース』46巻の「バナロ島の決闘」を漫喫で読み返してたら、黒ひげことティーチのヤミヤミの実のデメリット「痛みやダメージでさえ引き寄せる」という設定が、キッド(ユースタスのほうじゃないよ)の凄絶なファイトスタイルと似てる気がしたせいかな?

そう、キッドは攻めるときだけじゃなく、相手の攻撃を受けるときも常に全力。ものすごい音と反動の技を繰り出し、また受け身をとっていた。

おっと、まず本人紹介だね。
ダイナマイト・キッド(本名: トーマス・ビリントン)は、イギリス出身のプロレスラー。イギリスからカナダはカルガリーへと渡り、そして日本、アメリカWWFやNWAなどで活躍した。

キッドを日本で有名にしたのは、初代タイガーマスク佐山聡との名勝負の数々。テクニカルな腕前を競い合いながらも、キッドは技のひとつひとつの迫力(というより痛さ)で、観客に極上のエンターテイメントを提供した。

【出典】新日本プロレス

この佐山タイガー戦からキッドの虜になった友だちがいた。
Mちゃんだ。
一方の俺はいわば遅れてきたプロレスファン(新日派)で、佐山のこともキッドのことも高一になるまで知らなかった。

新日プロレスの放送日は金曜の夜8時。たぶん夏休みだったと思う。みんなで原付き二人乗りで中学の校舎に集まり、あまどいをつたって屋上に忍び込んでワチャワチャと遊んでいた。
まだ明るさが残る7時過ぎからなんだかソワソワしだしたMちゃん。

「じゃあオレ帰るけん」。

だべっているだけなので帰っても別にいいのだが、いちおう止める。
「まだええやんな。まだ早かばい」。

Mちゃん、きっぱりとこう返す。
「オマエ、今日はダイナマイト・キッドの試合があるとぜ」。

すると、他のみんなも「そうやった。今日はダイナマイト・キッド(誰も略さなかった)の日やった」とかなんとか口々に言いながら、あまどいを降りはじめた。

一番最後に降りながら、俺はこう考えていた。
「ダイナマイト・キッドって何者?」

キッドの高速ブレーンバスター、トップロープからのダイビングヘッドバットや雪崩式ブレーンバスター、ツームストーン・パイルドライバーなど、その技の数々は破天荒で、度胸満点だった。彼は自身の身体へのダメージも厭わず、命を削るかのようにプロレス人生を駆け抜けた。

小柄であるからこそ、筋トレでテンションを高めて、プロレスの迫力を全身で表現していたキッド。それはやがてステロイドの過剰投与となり、身体が不自然にデカくなる。従兄弟のデイビーボーイ・スミスと組んだ「ブリティッシュ・ブルドッグス」で、ヘビー級の選手とも渡り合うために。

【出典】Yahoo!ショッピング

衝撃的だった全日への移籍後もしばらくはキッドたちを追っていたが、プロレス番組を見る機会が次第に減り、1986年の椎間板のケガのときこそ心配したものの、1990年のスミスとの仲違いの頃はほとんど関心を失くしていた。
60歳の誕生日を迎えた2018年12月5日に、キッドは天に召された。

破壊的なスタイルだけでなく、筋骨隆々のロングタイツ姿、入場時の傲岸不遜な表情や予想外の技に痛がる演技の表情など、とにかく絵になる男だった。
初代タイガーマスクのライバルは、小林邦昭、寺西勇、ブラックタイガー、ザ・コブラとあまたいるが、およそキッドには及ばない。

ダイナマイト・キッドはプロレス界とMちゃん(現植木屋の親方)の心の中で、永遠の輝きを放ち続けている。

Mちゃんへの誕生日プレゼント

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