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ホワイトな学校へ#55 寄り道⑮ 誰にでもコンプレックスはある~我が師たち

小学校2から4年生のときの担任Yo先生

「寄り道⑦ わすれられないおくりもの~父のこと」でチラッとふれたが、私の曾祖父は、某師範学校の先生をしていた。

私が先生になろうと思ったのは、このような刷り込みもあったが、それが明確になったのは、前回ふれた、Yo先生との出会いがきっかけである。

Yo先生は、たくさん本を読んでくれた。
自分が持っている本で学級文庫を作り、貸し出してくれた。
物知りで、外国の話とか興味深い話をたくさんしてくれた。
休み時間に、たくさん遊んでくれた。
運動が得意で、誰よりもボールを高く投げ上げることができた。
毎日のように学級通信を書いていた。
字が上手だった。

こんな先生になりたいと思った。
中学校の頃までは、純粋に先生になりたいと思っていたのだが、高校生になって、真剣に将来を考えたとき、自分は、先生に向いていないと思った。
自分のように欠点ばかりの人間は、Yo先生のようには、絶対になれないと思ったのだ。
そこで、紆余曲折をすることになるのだが、その紆余曲折している間に、改めて、先生という職業を見直すことになる。

大学の教員養成系の同じクラスのメンバーは、皆、相当個性的だった。
非常勤講師として働くことになった学校には、いろいろな先生がいた。その先生たちは、Yo先生のような人ばかりではなく、やはり個性的な、それぞれ長所とともに欠点も持ち合わせた人たちばかりだった。

私は、先生という職業について、大きな思い違いをしていたことに気づく。
先生とは、何でも知っていて、何でもできて、子供の範となる言動ができる人だと思っていたが、そうではない。
先生は、子供たちに、学び方を教えるのであって、先生自身が何でもできる必要は全くないのだ。

それに気づいた私は、そうであれば、私にもできることがあるのかもしれない、と思った。
結果、私は、小学校の教員になった。

もしかしたらYo先生だって、子供の私から見れば完璧に見えたが、いろいろ努力していたかもしれないのだ。

そこで、改めて、これまで出会った尊敬すべき「我が師たち」についてまとめてみる。


5・6年生の担任Ya先生

小学校中学年位のとき、廊下ですれ違ったYa先生にいきなり怒られたことがあった。いつもしかめ面をして、眉間にしわを寄せていて、この先生にだけは担任になってほしくないと思っていたら、見事、5・6年生の担任になってしまった。
いざ、担任になってみたら、Ya先生は厳しさの中にやさしさのある、とてもいい先生だった。

思い返すと、Ya先生は、毛筆書写の授業を一切やらなかった。担任になった最初に、私は毛筆の書写が苦手なのでやりません、と宣言して、本当にやらなかった。(いいのか?!50年前のことなので、もう時効ですか?)

Ya先生とは、卒業してもずっと年賀状のやり取りをしていて、私が正式に教員になった時、当時校長になっていたYa先生に、ご挨拶に伺った。
「そういえば、先生、書写の授業やりませんでしたよね。」と言ったら、照れくさそうに笑いながら、忘れてください…と言われた。
Ya先生は、毛筆にコンプレックスをもっていたんだそうだ。

その贖罪か、退職後は書道を習いはじめ、毎年、展覧会も開催していた。
Ya先生は、私が書を嗜んでいるのを知っていて、私はご案内をいただく度に展覧会に伺って、先生と言葉を交わした。お会いする度に、先生のお顔が柔和になっていく感じがした。


習字教室のS先生 紫陽花の絵

小学校1年生の時から、近所の「S書道教室」にかよい始め、S先生がなくなるまでずっと習い続けた。S先生は、書がとても上手で尊敬していた。
このことが、現在私が書写教育にたずさわる大きな要因になったわけだが、そのS先生について。

あるとき、展覧会用の手本を借りる用事か何かがあって、当時の教室の2階にあるS先生の部屋に初めて行った。
S先生のお家は、昔、料亭をやっていたので造りが独特だった。昔ながらの床の間のある和室がいくつかあって、その一室が先生の部屋だった。
私は、先生の部屋に入ってとても驚いた。
部屋の内側の襖4枚にわたって、全面竹藪が描かれており、右下に小さく、その竹藪の中を歩いている童子たちが描かれていたのだ。
S先生が描いた日本画。

S先生は、J美大を卒業していた。本当は、日本画の絵描きになりたかったんだそうだが、親に反対されて他の仕事に就いたらしい。書道を始めたのはその後とのこと。

先生は、教室に飾ってある紫陽花の絵についても話してくれた。
先生の絵の師匠に、紫陽花を描くように言われたのだが、紫陽花の葉の色が表現できなかったんだそうだ。紫陽花の葉って、緑でしょ?と言う小学生の私に、先生は、「紫陽花の葉はね、緑じゃないのよ。」と言った。
当時は、よく意味がわからなかったが、今思い返すと、S先生の描いた紫陽花の葉も花も、雨の日の薄暗い夕方の色をしていた。

先生は、親に反対されたのもあるが、きっとそれを押しきって絵描きで生きていく自信もなかったのだ。色が難しいと言っていた。

そういえば、智恵子抄で有名な智恵子は画家で、セザンヌに傾倒していたが、やはり色彩で悩んでいたという。


ピアノ教室のST先生

私は小学校3年生、妹は幼稚園から、近所のピアノ教室に通い始めた。
ST先生は、とても厳しい方で、練習していかないと、めちゃくちゃ叱られた(当たり前…)。
私の妹は、レッスンがいやで、何度かさぼったことがあったという。(真面目なので、適当にできないんです…)

ST先生は、いわゆる普通の体型の美人だった。
先生には妹がいて、よく見れば顔立ちは似ているのだか、妹は大柄でふくよかな人だった。
やはり、その方も違う地区でピアノ教室を開いていて、発表会は合同で行っていた。

ある年、その発表会で先生方の歌を聞いた。
ST 先生の専門は声楽で上手なのは知っていたが、先生の妹さんはもっと声量があって豊かな声だった。

いつもは厳しいST 先生だったが、ある時ふと、妹が羨ましいと、もらしたことがあった。その理由を聞くと、妹さんの体型のことだという。
声楽は、体全体が楽器なんだそうだ。妹さんは体型のお陰で労せずとも豊かな声が出せる、自分はどんなに努力しても妹には叶わないんだという。

いつもは厳しく明るく堂々としたST 先生にも、そんなコンプレックスがあったんだと、意外に感じたことを覚えている。


悩みは人それぞれ

皆にすごいと思われている人でも、それぞれ悩みやコンプレックスをもって生きているのだと思う。
最初に書いたように、Yo先生だって、悩みやコンプレックスをもっていて、いろいろ努力していたのかもしれない。
それを乗り越えようと努力しているから、すごい人に見えたのかもしれないのだ。

本当の悩みは、他人には言えないことが多い。話すことはできたとしても、相談できない。相談しても、それを悩みと理解してもらえないことも多く、理解してもらえたとしても、解決できないことをよくわかっているからだ。

ただ、人に話すことで、問題点を整理し、自分の中で昇華したりすり替えたり、別の道を模索したりして、心を軽くすることはできるかもしれない。

悩みは人それぞれ。優劣をつけることなどできない。
悩みをかかえ、もがくことで、人間の幅が広がるのかもしれない。

昔、「みんな悩んで大きくなった」というコマーシャルがあったな。

次回は、寄り道⑯ きょうだい~妹C(U´・ェ・)のこと です=^_^=


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