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ホワイトな学校へ#47 その22 介護と働き方②~母のこと

母の介護と関連して、やっておいてよかったことがあるので、紹介します。


任意後見人

認知症と分かって間もない頃、母が急に、「これをお願いしたいのよ。」と言い始めた。確かに、任意後見人の手続きをやっておけば、母が認知症で何もわからなくなったとしても、母のお金を扱うことができる。そもそも、母のこと以外に使う気はないが、親戚の手前、勝手に使わないという証拠にもなる。

各自治体にある公証役場で公正証書を作ってもらい、必要書類をそろえて裁判所に提出すれば手続きができる。相当面倒だが、おすすめである。
任意後見人の申請をすると、裁判所から任意後見監督人(多くは司法書士)を選任してもらい、監督人に、定期報告を行う。最初は大変だったが、最近は慣れてきた。司法書士に知り合いがいると、いろいろなことが相談できて、それもありがたい。

お金のことは、クリアにしておいた方が、後々面倒が起きなくてよいと思う。


延命治療の拒否

もう一つ、母は、延命治療をしてほしくないと、意思表示した。これも、公証役場で公正証書を作ってもらうことができる。しかし、公証人が、認知症の人が果たしてきちんと判断できて物を言っているのかわからないということで、かかりつけ医の証明書が必要になった。
かかりつけ医は、「KU^ェ^Uさんは、文字も読めるし、その場の判断は正しくできますよね。」と、よくわかってくれていたので助かった。かかりつけ医には、公正証書を作らなくても家族の意思で大丈夫だと言われたが、作っておけば間違いない。

どのような状態でも生きていてほしいというのは、家族として当然の願いだが、延命治療で生かされている本人の苦痛も考えないといけない。


実家を片付ける

母がグループホームに入ったことと諸事情により、実家を片付けることになった。
噂には聞いていたが、これは、大変な作業だった。
夏休み前から毎週末、時間を決めて行った。妹と二人で、基本捨てる、「どうしても」というものだけ残す、という方針で行った。懐かしい皿などがたくさん出てきたが、涙を呑んで業者に引き取ってもらった。
母は、良く言えば、物を大切にするタイプ。例えば、食器等が入りきらなくなると食器棚を買うタイプであった。
たんす3竿と物置部屋のクローゼットを片した後に、母の寝室のクローゼットの奥から、もう一つ桐たんすが出てきたときは愕然とした。桐たんすは、日焼けをしないようにクローゼットに入れていたのだと思うが、それだけは処分をしないで残しておくことにした。
よく“着物高く買い取ります”などというチラシが入っていることがあるが、買い取ってもらえるのは新しいものだけで、古いものはただで持って行ってくれるだけまし、という感じだった。新しいものは、三味線をやっているお友達などにあげられるし、自分たちとしても残しておくつもりなので、結局持っていってもらうだけになった。
お雛様は、学校に寄付した。毎年、子供たちに眺めてもらえるようになってよかった。

根を詰めると大変なので、基本週末だけ作業というペースで、夏休み中は回数を増やしたが、優に3か月はかかった。
最後に、トラック1台分に乗るだけ廃棄してくれるという廃品回収業者に頼んで、ダイニングテーブル、椅子、ベッドなどの大物すべてを引き取ってもらい、完了した。

いつかはやらねばならないことなので、やってしまってよかった。


余談~母の生き方

母は、父とお見合い結婚した。結婚するに当たり、母は、勤めていた銀行を辞めた。
当時家では下宿屋を営んでいた。大学が数多くある地域で、当時、親元を離れて暮らす学生は、下宿住まいが多かったようだ。下宿は、朝ご飯と夜ご飯の賄い付きである。結婚当初は、お手伝いさんがいたようだが(というか、お手伝いさんがいるという条件で結婚したのだが…)、下宿の賄いはすぐに母の仕事になった。

父が、会社を辞めて製本工場を始めたときも、最初は工員がいた。しかし、ほどなく工員は解雇になり、母が製本工場を手伝うことになった。
「父のこと」で述べたように、父は「これからは女性だって、大学に行って、仕事をもって働くべきだ」と考えていた。そのように育てられ、そういう視点で母の生き方を見ると、これでいいのかと疑問をもった。

日単位で見ても、母の予定は家族に振り回されることが多かった。
父と私たちが釣りに行って、メゴチをたくさん釣ってくれば、そこからメゴチをさばくのに何時間も格闘し、天ぷらを揚げる。
正月に向けて年末は大掃除をし、おせち料理を作り、正月になれば次から次へと来る客に料理を出したり、酒の燗をしたりと、座る間もなかった。
家族の都合に振り回される人生でいいのか?と、若い頃の私は思っていた。

その後私も家庭をもつようになり、母の生き方が少しわかるようになった。家族のことに時間を使うのは、自分のために時間を使っていることと同じ感覚である。うまく書き表すことができないが、私=子供という感じ(夫には、=とはいかないが…)。
子供が「明日までに、これ準備しないと…」と言えば、「何で、もっと早く言わないの!」とは言うが、絶対にやる。やらないという選択肢はない。それで寝不足になったとしても、寝不足は日常である(詳しくは、「仕事の流儀」で)。
「家族の都合に振り回されている人生」という感覚ではない。むしろ、自分の人生を全うしているという感覚。

母は、私が教員になったときも、管候補の試験が受かったときも、校長になったときも、自分が合格したかのように喜んでいた。
校長として着任したときは、叔母と一緒に学校を見に来たんだそうだ。声をかけてくれればよかったのにと言ったら、「いいの、いいの。お仕事の邪魔しちゃ悪いし、どんな学校か見たかっただけだから(^-^)」と、満足げだった。

だから、母の介護と仕事との両立を考えたときに、仕事を辞めるという選択肢はなかった。それは、最も母が残念がることだから。
母の生き方を考えれば、私は、これからも仕事を続けていくのだ。


徳を積む

「父のこと」で述べたように、借金の返済をしているころ、母がいくら節約しても父がいろいろ買ってしまうことを日記に書いていた。文句はこのことぐらいだったが、母は毎日、日記をつけていた。
家計簿も、几帳面に細かくつけていた。これは、近所づきあいや、お布施の金額など、後々、とても役に立った。
日記については、大量過ぎてすべては読んでいないのだが、いくつか心に残ったことがあった。

その一つが、「徳を積む」という考え方である。

ここにも一人⇊⇊

自分が何かやろうとしたときに、うまくいかなかったとする。そういう時、母は、「自分の徳が足りなかった。」と思うのだそうだ。誰かや何かに責任転嫁してしまえば、その時は気分が楽かもしれないが、自分のためにはならない。
母の考え方であれば、次に向けて努力するのは自分である。そして、母の考え方によれば、達成するために直接努力をするというよりも、普段から、人に親切にしたり、物を大切にしたり、誰がやってもいいことを密かにやったり、というようなことを積み重ねることにより、徳を積むことができるという。
だから、母は、自分より家族のことを優先し、近所付き合いを大切にし、冠婚葬祭はもちろん、お寺から法要などの案内が来れば、欠かさずに参加していた。
母の考え方、生き方は、母の日記を読んで合点がいった。


越し方を振り返り、私は、十分に徳を積めているだろうか、と思う。
誰がやってもいいこと、例えば、印刷をしに印刷室に行ったときその辺りの紙を整理したりなど、できることは必ずしている。
自分のことはさておき、子供のことは、思うようにいかないことが多く、自分はまだまだ徳が足りないのだと思う。

年を重ねると、見えてくることがある。
昔は、何でそんなことを大変だと感じていたのだろうと、思うこともある。
時が解決してくれることも、多々ある。

今、仕事が大変だと感じている先生方、仕事は続けた方がいいです。
いずれ、自分の拠り所になります。


余談~校長でよかった…

母の認知症が発症したのは、校長になって3年目から4年目にかけてだったが、この時、自分が校長でよかったと、心から思った。校長は、比較的時間が自由になる。
校長は、すべての責任を取る係であるが、授業の割り当てがあるわけではない。先生方は、自分が休む必要があるとき、他の先生方に補教に入ってもらうことに気兼ねがあると思う。困ったときはお互いさまで、補教に入る先生方は文句を言ったりしないが、お願いする本人としては心苦しいというところはある。
その点、校長は、自分の仕事のやり方を、比較的自由に決めることができる。そのおかげで、病院などを探すにも、各種手続きでも、比較的休みを取りやすかった。短期介護休暇を使えたこともありがたかった。

皆さん、管理職でよかった、と思うことは結構あります。ぜひ、目指してください。

次回は、寄り道⑫ 理不尽なことは嫌い です=^_^=


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