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LGBTQ当事者なのにレインボーフラッグを「見たくない」③

■第3話
 
 私はゲイだが、性的マイノリティの社会運動を象徴するレインボーフラッグが嫌いだ。なぜか「見たくない」のである。

 第2話で、私はレインボーフラッグを見ると「6色の旗である」という事実以上に、誰かによって込められた意図や、旗が象徴する運動とその担い手たちの存在に勝手に思考を巡らせてしまうこと、そして、「それらと関わりたくない」と感じてしまうといった率直な気持ちを書いた。

 逆説的だが、「関わりたくない」という感情は、背後に「関わるべきである」という圧力を感じるからこそ抱くわけで、もし仮に、「関わっても関わらなくても良い」という考えが骨の髄にまで浸透していれば、そもそも意識しようとすらしない。言い換えれば、冒頭の「見たくない」という嫌悪だって、取り立てて感じないはずである。「嫌いは好きの裏返し」という言葉があるが、自分は「レインボーフラッグや、それに象徴されるLGBTQ+の解放運動を先導する人々」を非常に深く意識してしまっているということだ。

 しかし、「LGBTQ+の解放運動に関与すべきである」という言説には、やはりどうしても気乗りしないのが偽らざる感情であり、そういう自分に対して勝手に失望し、勝手に傷つく面倒な一面もある。
 
 「関わるべき」という圧力は、「ゲイとして生まれた以上、その運命に相応する社会的な責務を果たさなければならない」という義務感に下支えられている。一見、公共的なので、外野から要請されたように思われるかもしれないが、実際は誰かにそのように言われた経験があるというわけではなく、なんとなく自分の中から自然に浮かんできたという感覚が強い。インターネットやテレビで「LGBTQ+解放運動の先頭に立つ人たち」を偶然に目撃する機会は少なくなく、その度に、「関わるべきなのに、どうしても気乗りしない自分は悪い子だ」というような罪悪感にも似た自傷感情を掻き立てられてしまうのである。

 はっきりいって、私はそうした人たちに羨望の情を抱いているのかもしれない。当事者がレインボーフラッグを振りながら街を堂々と練り歩くという行為は、見方によっては「私は性的少数者である」と大々的に公表する意味を含む。インターネットやテレビを通じて、その映像が全国的に発信され、彼/彼女の当事者性を知らなかった知人が偶然に視聴する可能性があるとすれば、報道クルーが訪れるであろうパレードに参加すること自体、非常に覚悟の要る行為に見えてしまう。そして、自分はそうした覚悟をまだ持ちきれていない自分に「未熟さ」を感じてしまっている。

「未熟さ」ーー。その言葉を見て、我ながらギョッとした。カミングアウトの覚悟を持てない自分に未熟さを感じるというのは、つまりは「カミングアウトに覚悟を持てる人は人間として成熟しており、その覚悟を持てない人は未熟である」といった考えが潜んでいるからである。この考えは、改めて、非常に暴力的である。なぜなら、カミングアウトが性的少数者の側だけに強いられる歪な構造そのものが、こうした苦悩を生み出す元凶であるのにも関わらず、それを個人の能力や素養の問題に矮小化する姿勢を追認する言説だからである。自分には、そういう暴力的な一面があったのだと気づかされ、自分で書いておきながら、少し落ち込む。
 
 だが、性自認をオープンにする人を「成熟した人」とみなす考えを否定する方針(スタンス)とは別の話として、日本社会で30年間生きてきた自分が、現在、その感情を潜在的であれ、追認または無批判に肯定する考えを今の今まで抱いていたという事実は、確かに否定できないし、目を逸らすべきではない。見方によれば、男女交際や異性愛がデフォルト設定として当然視される日本社会で生まれ育つうち、そういう考えを知らぬ間に「植え付けられた」と評価する余地があるのかもしれないが、それを直接支持する経験や記憶が今のところは思い出せないほどに自分の血肉となっているところに、問題の根深さを感じている。

 ここでの問題というのは、つまり、性的少数者として抑圧を感じながらも、現状の「異性愛=普通/同性愛=異常」という構造を傍観し、漫然と追認するシニシズムである。これが問題である理由は、自分自身が傷つくということ以上に、誰か他の人が傷つく状況を放置している(=自分は、本当は何かもっとできたはずなのではないかと自問してしまう)意味で、「間接的に加害しているのではないか」という自己批判である。性自認をオープンにすることが単純な正解だとも思わないが、何かしら現状に対してさざなみを起こすよう行動する方法を考えることが、自分に課せられた問いのように感じている。

ーーでも、どうやって?

(続く)

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