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日本中世の職能民②

皆様、こんばんは。
前回に引き続き、日本中世の職能民を紹介していきます。
それでは早速本編へ行きましょう!


職能民の存在形態―神人・供御人制

職能民の形成

平民あるいは農業民と異質な人々に対し、多少とも意識的な目が向けられはじめられのは、8世紀まで遡ることができる。
『万葉集』や『日本霊異記』に姿を現すが、まだ職能をそれとしてとらえる見方は固まっていないといってよい。
9世紀末の菅原道真の漢詩「寒草十百」は、一般平民と異なる立場に置かれた人々、非農業的な生業に携わる人々がとりあげられ、国守の目から同情をこめて描かれている。ここに職能民に対する後年の貴族社会の見方の源流の一つを求められるだろう。
職能及び職能民の社会的な位置づけが定まってくる過程で、宮廷の官職、職掌に関わりのあるグループが、職能民のグループと切り離し難い関係をもっていた。ただ、家格、家業がなお完全に固まり切っていない時期の現象であり、家格の定まった貴族は、鎌倉期に入り支配者としての立場を固めた武者とともに職能民グループから姿を消す。

神人・供御人制の確立

10世紀以後、臨時雑役を免除された「寄人」が広く姿を現わし、11世紀に入ると、畿内近国に激増してくる。
令制の官司に属していた職能民が、内廷官司の寄人となっていった。こうした動きの中で、11世紀以降、大きな政治問題になってきたのが大寺社に属する神人・悪僧の動向となった。
もともと神人の語は、『日本霊異記』においては神に属する人ならぬ存在をさす語であった。
しかし10世紀以降は神社に仕える人をさす語となり、以後、この用法がふつうになる。
11世紀に入ると、神の権威を背景にした神人の活発な動きが目立つようになった。なぜなら、衆徒の訴えによっている場合でも「神威」を前面にしているためだ。
これに対し、王朝は土地に即して荘園と公領の分野を明確にするために、荘園の整理と人に即しては、大寺社や諸司等の寄人関係を明らかにするために、寄人の整理を推進した。
神人・供御人制は荘園公領制と同様、13世紀までに一応確立したようだ。
神人はしばしば「神奴」と称していた。「寺奴」も同様で、神仏、天皇の直属民、「聖なるもの」の「奴婢」であり、平民百姓の身分とも明確に異質な身分として、自他ともに認めていた。
神人の女が平民と結婚することが「別籍」になるといわれ、明確に区別されていた。
法成寺、法勝寺に属する猿楽も供御人・神人に準ずる人々であった。

職能民の特質

中世前期まで山野河海のかなりの部分は、なお人力の全く及ばぬ「無所有」の自然の状態であり、人間にとって、畏敬、畏怖するほかない世界として、社会に力を及ぼしていた。
いわば「聖なる世界」と人間の社会との接点、境界だ。
職能民の主たる活動、その生業の営まれた空間は、まさしくこうした「聖なる場」であり、神仏の直属民として職能民がとらえられた理由の一つである。
猿楽や田楽、獅子舞などの狭義の芸能も当時の人々は神仏の世界との交流の中でそのようにとらえられていたのだろう。

本日のまとめ

職能民は、菅原道真の漢詩が書かれた頃から貴族社会では哀れな存在として見られていた可能性がある。
その一方で神仏、天皇等の直属民として聖なるものの奴婢、つまり隷属している身分だと明確に一般平民とお互いが意識していたこともわかる。
この中に、法成寺、法勝寺に属する猿楽の言及もあったがこれは丹波猿楽と認識されていた榎並猿楽や矢田猿楽の過去に参勤していた寺社であることから、丹波猿楽はそのような認識をされていた。と読むことも可能かと考える。
そして、職能民は聖なる世界、人の力が及ばない世界と人とを繋ぐ存在として生活するもの。だからこそ、狭義の芸能に示された猿楽、田楽、獅子舞なども聖なる世界との交流をはかり、人々を楽しませる職能民ととらえられていたのだと私は今回の項目で、考えている。

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