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ある風景③ 〜子どもと手を繋いで歩くということ


最近、手を繋いで歩いたのはいつですか?

駅前の20時5分の繁華街。
子供と歩くにはちょっと躊躇われるような、
居酒屋が並ぶ界隈で、
「串カツ田中」からの帰り道。

5月初旬のゴールデンウィークにしては、
昼間は真夏の汗ばむ陽気。から一転、
肌寒さの残る夜だからだったのか、

小4の息子がふと手を握ったので、
その手をあたためるかのように手を繋いで
歩いた。

幼児の下の息子ならなんてことないが、
小4にもなると、どこかぎごちなく、
思わず鼻の頭をかいてしまうような、
照れもある。

「手を繋いで歩く」というなにげない
動作にも、心が動く。

昼間は憎たらしくも反抗期手前の、
はむかう姿があるから余計に、
手を繋ごうとする仕草には嬉しさや、
安心感のようなものもある。

手にはあたたかみがある。

反面、あとこうして手を繋げるのも、
2.3年のことなんだろうなあ、と思うと、
あたたかさの奥にさみしさも滲む。

最近、親と手を繋いだのはいつですか?

10年ほど前の結婚式の一イベント的に、
お色直し時のエスコート、があって、
そこでの指名は自分の母親にした。
今思うと、なんでかわからないけど。

母と手を繋いで歩くのは、
その当時何年振りだっただろう。
それ以来、手を繋いでもいない。
その手は、言葉にならない長年の苦労ゆえ
なのか、あたたかさ以上の温度だった。
鮮明におぼえている。

思いたくもないが、次に手を繋ぐのは、
看取るときになるのだろうか。

大人になれば
手を繋がずとも危険はないし、
わざわざ繋ぐ必要もなくなる。
子供もいずれそうなってゆくだろう。

手を繋いであるく風景は、
見かけなくなっている、または
少なくなっているような気がするのは
私だけだろうか。

手を繋がずにつながるのは、
手のひらの上のスマホか。
その向こうにある不特定多数または、
友人知人の存在か。

スマホと手を繋ぐ時間が多い。

大事なことを忘れてやしないかと、
自分に問う。

手をつなぐという行為は、対等である意識と、相手との距離感を図っていることがあります。

アットコスメより

「手を繋ぐ」をググると、
だいたい
「男女間の、脈アリ?」みたいな
話がほとんどです。

親子も、あっていい。のでは。

そうして、
誰かと手を繋ぐということは、

自分自身と手を繋ぐということ。
でもあるかもしれない。

自分自身の心の有り様かわあらわれる。
自分との距離感を確かめる行為かもしれない。

自分にゆとりがないとできない。

ためしに、自分の手を自分と繋いでみたが
なんにも感情はゆらがない。

家族や自分以外となら、まったく違う世界が
広がる。

手を繋いでみよう。

こどもの日は、過ぎちゃったけれど、
あしたまでは、いいかな。
そんな心の余白を。


今日もおよみいただきありがとうございます

来週には母の日。
心にゆとりがあってもー。
母と手を繋ぐ、というのは
ハードルが高いけど。

なにか、大切な気がする。





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