アナログ派の愉しみ/本◎『万載狂歌集』

「やハらかなけしきをそゝと」――
のどかな光景が生々しく反転する真骨頂


日本の栄えある詩歌の伝統において、その底辺に位置するのが狂歌と言っていいだろう。と、こんなふうに書くと狂歌を見下しているように受け取られかねないけれど、とんでもない、わたしは平安貴族の洗練をきわめた和歌よりも、むしろ美なんぞ目もくれず、俗世間の神羅万象を笑い飛ばした歌たちのほうにずっと親しみが湧く。

 
そうした高尚ならぬ哄笑の文芸は太古の昔からあったはずだが、動乱の中世に文学史の舞台に登場し、やがて徳川幕府体制の泰平と停滞のもとで社会に広く受け入れられていく。1783年(天明3年)に出版された『万載(まんざい)狂歌集』は、文壇の大御所・大田南畝(狂名は四方赤良)らが選者となって古今の230余名の748首を集大成した一大アンソロジーで、田沼時代の江戸に空前の狂歌ブームを巻き起こす――。とまあ、七面倒な解説はこのくらいにして、教養文庫版(宇田敏彦校註)をもとづき、さっそくわたしのお気に入りのベストスリーを発表しよう。

 
まずは開巻冒頭の歌。いきなり仰天ものだ。

 
 春たちける日よめる 貞徳
・さほ姫のすそ吹返しやハらかなけしきをそゝと見する春風

 
貞門俳諧の総帥・貞徳が立春の日に詠んだという一首。とりあえず表面上の意味は、「佐保姫(奈良県・佐保山)の若草の裾野を吹き返して、穏やかな景色を楚々と見せてくれる春風よ」といったものだろう。その裏に含意されているところを読み解くと、こうなる。「春の女神の召し物の裾を吹き返して、柔らかな毛並み(けしき)を女陰(そゝ)に垣間見せる春風よ」。いかがだろう? 目に浮かぶのどかな光景がいっぺんに生々しいものに引っ繰り返ってしまう「あぶな絵」のようなつくりになっているのだ。それでいて、表と裏ともに萌えいづる春の生命力のまばゆさを伝えて、病的な印象は少しもない。まさに狂歌の真骨頂と言うべきか。

 
こちらも強烈だ。

 
 題しらす よミ人しらす
・恋といふそのミなかミをたつぬれハばりくそ穴のふたつなりけり

 
説明不要だろうが、念のためわたしなりの読み解きを示すと、「女色と男色の恋の内実を突きつめれば、結局は小便と大便をひりだすふたつの穴に尽きよう」。まったくもって身も蓋もない文意ながら、これには「ある人のいハく此うたハ一休和尚のうたなりと」との添え書きがあって、あの豪放磊落な一休禅師がもし本当に詠んだのなら、この臭気ただよう一首は「色即是空」の境地を喝破したものかもしれない。

 
もうひとつ、下ネタではない歌も挙げておこう。

 
  よミ人しらす
・何となく人にことばをかけ茶碗おしぬくひつゝ茶をものませよ
  此うたある人のいハく利休居士かなり

 
「気の置けないおしゃべりをして、粗末な茶碗を拭いながら茶をいただきたいものよ」といった意味か。添え書きによれば、わび茶の完成者で、時の権力者・太閤秀吉の怒りに触れて自死した千利休が詠んだ歌とされ、いかにもとぼけた味わいが微笑ましい。徳川三代将軍のころの笑話集『醒睡笑』は、この歌と「花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや」を挙げて、「利休はわびの本意とて、この歌をつねに吟じ、心がくる友にむかひては、『かまへて忘失せざれ』となん」と伝えている。

 
春の訪れに女性の生命力を重ねたり、恋情の煩悩の究極は股ぐらの穴ふたつに過ぎないと見きわめたり、あるいは人間同士の交わりの妙を欠け茶碗に託したりと、それらに込められた日本人の笑いの豊かさにつくづく感嘆しないでいられない。こうした笑いを現代のわれわれは一体、どこにやってしまったのだろうか?
 

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