アナログ派の愉しみ/本◎ソルジェニーツィン著『マトリョーナの家』

野蛮な社会に
ひとりの義人ありて


まったくの私見ながら、第二次大戦後の世界文学で決して目を逸らすわけにいかない三人の作家を挙げるとすれば、アレクサンドル・ソルジェニーツィン(1918年、ソ連・キスロヴォツク生まれ)、三島由紀夫(1925年、日本・東京生まれ)、ガブリエル・ガルシア=マルケス(1928年、コロンビア・アラカタカ生まれ)ではないか。それぞれに20世紀後半の人類社会が抱え込んだ抜き差しならぬ野蛮を炙りだしてみせたから。なかでもソルジェニーツィンは史上空前の全体主義国家と正面切って対峙しただけに、ひときわ苛烈な記録を後世に残したと言えるだろう。

 
そんなソルジェニーツィンの文学遺産のうち、1963年、44歳で発表した『マトリョーナの家』は最もほのぼのと人肌の温もりを感じさせる作品かもしれない。戦争に砲兵として出征中、独裁者スターリンへの不適切な言動により逮捕されたかれは、各地の収容所を転々として8年間を過ごしたのち保釈されたものの、なお寄る辺ない追放の身であり、ウラジーミル州の泥炭採掘地にある小さな村の学校で数学と物理を教えて過ごすことになった。そのときの体験をもとに綴られたのがこの短篇だ。

 
鉄道の駅を降りた「私」が村にやってきて下宿先を探していると、たまたま市場で知りあった女性にマトリョーナのもとへ案内される。この60歳近い老婆は古めかしい百姓家にひとりで暮らし、他にはびっこの猫とネズミとゴキブリがいるだけだったので、わずかな下宿代で同居を受け入れてくれた。もっとも、すっかりからだの弱った彼女は「煮炊きもようできんでなあ、とても気に入るようにはねえ」とさんざん逡巡していたところ、翌朝、貧しい食卓を囲んでこんなやりとりが交わされる。木村浩訳。

 
 私は出されるものは何でも不平を言わずに食べ、何か異物が入っていれば、それが髪の毛だろうと、泥炭のかけらだろうと、ゴキブリの足だろうと、根気よく脇へ取りのけた。〔中略〕「ごちそうさん」私はほんとに心の底から言った。
 「ほんとかい? おいしかった?」マトリョーナはまぶしいばかりの微笑で、私をとりこにしてしまう。それから、薄青色の眼を無邪気に見開いて、たずねるのだった。「それじゃ、晩方には何をつくろうかね?」

 
もちろん、それはお世辞ではなかったろう。政治犯として懲役(ラーゲリ)の境遇にあって口にしてきたものと較べたら、はるかに上等なご馳走だったはずだ。やがて、マトリョーナもまた、革命前に結婚した夫とのあいだに6人の子どもを生んだものの幼くしてすべて亡くしてしまい、その夫も戦争に取られたきり生死不明になったという孤独な人生を過ごしてきたことが明かされる。いわばソ連の共産主義体制の底辺に置き去りにされた両者がここに出会い、ようやく落ち着きのある日々を取り戻したのだった。

 
しかし、それも長くは続かなかった。行方知れずの夫の親族たちが財産をめぐって揉めだすなか、マトリョーナが早死にした子どもらの代わりに可愛がってきた姪の夫婦が住まいの建築用地を手に入れるため、この家の中二階の建材を提供することが求められる。もはや老い先短いものとなんら執着のなかった彼女は、親族たちが乗り込んできて厚かましくも柱や羽目板を取り外してトラクターの橇に積み込むのを手伝ったばかりか、たいそうな重量の運搬に付き添ったあげく、鉄道の踏切で立ち往生して列車事故に見舞われた。

 
こうしてマトリョーナはあっけない死を迎える。その愚かしくも素朴な老婆の生と死にさほど重大な価値はなかったろう。いっときは涙をこぼした身内や近隣の連中もすぐさま忘却のかなたに追いやっていくのに違いない。だが、「私」の見解はまるで異なるものだった。

 
 われわれはこのひとのすぐそばで暮しておりながら、だれひとり理解できなかったのだ。このひとこそ、一人の義人なくして村はたちゆかず、と諺(ことわざ)にいうあの義人であることを。
 都だとて同じこと。
 われらの地球全体だとても。

 
この美しい文章についてあえて解説するなら、何もマトリョーナが特段の人格者だと主張しているわけではない。しかし、まわりを取り巻く社会が野蛮であればあるだけ、そうした愚かしくも素朴な人間こそが義人の輝きを帯びて社会を救済していくことを告げているのだ。そして、さらにつけ加えるならば、今日のネット情報空間はソルジェニーツィンのいう地球全体をまるごと緊密化する一方で、ここに描かれたような愚かしくも素朴な義人の出現を金輪際不可能にしてしまったのではないか。たとえ、われわれの社会がどれほど野蛮に成り下がろうとも――。
 

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